世界規模での新型コロナウイルスの流行が続き、国内においても日本全国において緊急事態宣言が出されたことによって外出自粛などの日常生活の制限に終わりが見えにくい状態が続いていくなか、

家の中に閉じ込められ社会からの孤立が進んで行くことによって強いストレスが溜まり心が沈みがちになるコロナ鬱とも呼ばれる症状を訴える人が増えている。

こうしたコロナ鬱とも呼ばれる精神状態の悪化から逃れるための心の用い方としては、曹洞宗と臨済宗における禅の修行方法にも通じる二通りの道が参考になると考えられる。

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曹洞宗と臨済宗の禅の修行方法における悟りの境地へと至る二つの道

鎌倉時代に成立した日本仏教における禅宗の宗派の一つでもある曹洞宗と臨済宗においては、どちらの宗派においても、

世界の内で生きていくことによって生じるあらゆる苦難や迷いから離れて生死を超えた永遠の真理へと目覚める悟りの境地へと至るために、坐禅などの修行が重視されている。

しかし、その一方で、こうした心の永遠の安らぎの境地でもある悟りへと至るための精神の修行の道筋には、二つの宗派において大きな違いがある。

曹洞宗における禅の修行では、只管打坐(しかんたざ)と呼ばれるように、ただひたすらに無心の状態で坐禅を続けていくことによって悟りの境地へと至ることが目指されるのに対して、

臨済宗においては、公案(こうあん)と呼ばれる悟りへの道を探求するための手がかりとなるとされている問題が修行者に与えられることになり、修行者は、

「隻手の声(せきしゅのこえ)あり、その声を聞け」(片手で拍手をするとどのような音になるのか考えよ)

といったいわゆる答えの出ない禅問答のような問いについて延々と思考を巡らしていくという深い思考の迷宮へと潜り込んでいく長い道のりの果てに、悟りの境地へと至ることになるとされている。

そして、こうした曹洞宗と臨済宗における二つの修行の道は、方向性としてはまったく異なる正反対の道でありながら、その道のたどり着くことになる行き先は、悟りという一つの完成された精神の境地へと収束していくことになるのである。

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無心の道と集中の道の二つの道を歩むことで得られる現代の時代における心の平安

それでは、新型ウイルスの流行によってコロナ鬱とも呼ばれる気持ちの晴れない鬱積した状態が続く現代の世界を生きる我々自身にとっては、こうした曹洞宗と臨済宗の坐禅修行において目指されている二通りの道は具体的にどのような形で参考にすることができるのだろうか?

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曹洞宗の修行僧たちが目指していた無心の状態でひたすら坐禅を組み続けていくという方法は、一見すると単純な方法であるように見えて、テレビやインターネットあるいはSNSなどによる情報過多の時代を生きる現代人にとっては心が乱され煩わされることが多く意外と難しい。

それでも、朝目覚めたすぐ後に、カーテンを開けて、日の光を浴びながら5分間くらいでも、心の内に言葉やイメージを思い浮かべることなく静かに坐禅を組んでみることは一日の始まりに心の区切りをつけるためにも意味のあることかもしれない。

また、精神の疲労や息詰まるような生きづらさを感じたその時々に、自分がリラックスできる好きな音楽などを聴きながら、目を閉じてベッドに静かに横たわることによって、ひたすら心と体を休めていくということも、そうした無心の境地へと通じるストレスが解放された状態へと心を近づけていくことにつながっていく。

それに対して、臨済宗における公安や禅問答を通じた思索への集中の道というのは、ただ目の前のやるべき事、あるいは、やりたい事に対して、ひたすら集中して取り組み続けることによって実践されることになる。

テレワークなどで自宅で行うことになった仕事にめりはりをつけて集中して取り込むこと、あるいは、家の中に長くとどまることになったこの際、心の中を整理するのと同時に、部屋の中を徹底的に整頓してきれいに掃除していくのもいいかもしれない。時間が許すのであれば、ゲームや映画、創作活動などといった日頃からやりたいと思っていた趣味の世界に思い切り没頭してみるのもいいだろう。

そして、そのような一つの仕事や、一つの作業、一つの活動へと精神が深く集中している時には、少なくともその瞬間においては精神はコロナ鬱の状態からは解き放たれ、心を乱す外の世界の情報からも離れて自由を得ることになる。

そして、首尾よく仕事や作業が進んで自分でも十分に納得のいく出来映えの結果が得られたとするならば、その瞬間には夏休みの宿題を締め切り前にやり終えた時のような爽快さが心の内に吹き込まれることになるだろう。

そして、こうした曹洞宗と臨済宗という二つの禅宗における修行方法において見いだされていくことになる、何も考えないことを目指す無心の道と、ひたすら何かについて考えていく集中の道という二つの道のそれぞれを歩んで行くことを通じて、悟りの境地へも通じる精神の平安が得られることになると考えられるのである。

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