前回の記事では、曹洞宗と臨済宗といった仏教における禅の思想に基づいて、人間はいかなる形で悟りの境地へも通じる心の平安を得ることができるのか?ということについて考えてきたが、

欲望あるいは心の葛藤や苦しみといったものから解放されて精神の平安や永遠の真理を得るために必要な人間の生き方についての模索は、

世の東西を問わず、これまでに生きてきた数々の哲学者や思想家たちによって、そうした人間の生き方についての真摯な探求がなされ続けている。

例えば、筆者の愛読書の一つであるスピノザの『知性改善論』のなかの一節において、若き日のスピノザが書き残したと考えられる以下のような言葉のうちにも、

一人一人の人間が欲望や心の苦しみから解放されてより善く生きることができるようになるための手がかりとなる言葉が語られている。

スポンサーリンク

若き日のスピノザが語る永遠なる真理の探究の道へと進む決意の言葉

スピノザの『知性改善論』、正確に言えば、『知性の改善に関する並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文』と題される書物は、

若き日のスピノザが自らの知性と思考の働きによって神と世界、そして、人間の心と宇宙の永遠の真理を解き明かしていく哲学の探求の道へと進むことを決意したことを語る以下のような言葉によってはじまる。

「一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされる限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。

我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるようなあるものが存在しないかどうか。

いや、むしろ、ひとたびそれを発見し獲得したならば、不断の最高の喜びを永遠に享受できるようなあるものが存在しないかどうかを探求してみようと。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、11ページ参照。)

つまり、若き日のスピノザは、富や名誉や快楽といった通常の生活において人々が追い求めている欲望の対象となる物事が本質的には実体のない「空虚で無価値」なものであるという、仏教における空の思想や、悟りの境地にも近い真理を自らの心の内にすでに見いだしていて、

そうした欲望や苦悩の対象となる物事に心を動かされることなく、永遠の真理へと至る道を探求していく精神修行にも通じるような哲学の道こそが人間の精神にとって最善の道であるということを確信していたと考えられるのである。

スポンサーリンク

スピノザの『知性改善論』に学ぶ欲望や心の苦しみに対応するための心の処方箋

しかし、その一方で、現実主義者でもあるスピノザは、そうした富や名誉や快楽といった欲望の対象となる物事に対していちいち心を煩わせる必要がないことが頭では分かっていても、生身の人間としての実際の行動や心理状態においては、そうした欲望や心の苦しみからすっきりと抜け出してしまうようなことはできなかったと自ら率直に認めている。

スポンサーリンク

そして、それでもなお、そうした欲望や心の苦しみから少しでも遠く離れて心の平安と自らが志す哲学の道へと己の精神を導いていくために必要な方法を知るための手がかりとなる考え方について、スピノザは以下のように語っている。

「ここに一つ私に分かっていることがあった。それは、こうした思想にたずさわっているその間だけは、精神が以上のような欲望から離れて真剣に新しい計画について思惟していたということである。

このことは私にとって大きな慰めとなった。なぜならそれらの悪は、どんな対策を用いても退け得ないようなそんな性質のものではないということを知ったからである。

そしてこのような期間は、最初にはまれであり、はなはだ短時間しか続かなかったけれども、真なる善なるものが次第に私に明白になってきてからは、その期間がより頻繁になり、より長くなっていった。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、16~17ページ。)

ここで重要なのは、自らの精神と知性のみを拠り所とした永遠の真理の探究という孤独で困難な哲学的探求の道を生涯歩み続けていくことができたスピノザですら、

富や名誉や快楽といった世俗的な事柄から完全に離れていかなる心の葛藤や苦しみからも完全に解き放たれた聖者のような悟りの境地へと至ることは不可能であったということを率直に認めていて、

そのうえで、そうした永遠なる真理の探求への道、すなわち、自分のやるべき事柄に深く集中して取り組むことができている間は、自然にそうした欲望や心の苦しみから解放された精神の自由を得ることができるのだから、それだけで十分であるという、ある意味で非常に割り切った考え方をしているということにある。

そしてさらに言えば、スピノザは、そうした欲望や心の苦しみから解放された自由な精神の状態というのは強化していくことが可能なものであると考えていて、

自らがやるべき目の前の活動へと深く集中していくという精神の働きそのものが自由で解放された精神の状態を長く保持し続けていくことができるようになる心の鍛錬や修行へと直接的につながっているということも挙げられる。

そして、そういった意味では、

有意義に活用することができずに過ぎ去ってしまった時間や出来事について、ああすれば良かったと後悔し、思うような行動をとることができなかった自分を責めたり罰したりするのではなく、

思い立ったその時々ごとに、現在の行動現在の思考へと自らの精神を集中させていくことを心がけ、精神の集中が得られて自分が思う活動へと十分に取り組むことができるたびに自らの精神がより解放された自由な状態へと高められていく喜びを享受するという

現在の活動への集中自己肯定の姿勢とも呼ぶべき二つの要素が、

こうした『知性改善論』と呼ばれる書物において、若き日のスピノザが自らの生き方の指針となる考え方について書き残した言葉から、現代の時代を生きる我々が学ぶことができる

一人一人の人間が自らの心の内にわき起こる欲望や苦しみにうまく対応して、より善く生きることができるようになるための心の処方箋のようなものになっていると考えられるのである。

・・・

「哲学」のカテゴリーへ

スポンサーリンク