仏教思想においては、苦諦・集諦・滅諦・道諦と呼ばれる四つの真理、すなわち、四諦に集約されるすべての物事の本質を見極めた状態にあたる諦観とも呼ばれる悟りの境地へと至ることが重視されるが、

こうした仏教における諦観の境地にも通じる思想は、西洋の哲学者であるスピノザの哲学における永遠無限なるものへの愛の思想の内にも、それと同様の思考の道筋を見いだしていくことができる。

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仏教思想における四苦八苦と四諦の真理によって至る諦観の境地

仏教思想においては、人間が生きていくなかで必然的に経験することになる「生」・「老」・「病」・「死」という四つの苦しみである四苦(しく)に、

愛するものと別れることで感じる苦しみである「愛別離苦」(あいべつりく)、憎むべきものと出会うことによって感じる苦しみである「怨憎会苦」(おんぞうえく)、求めるものが得られないことで味わう苦しみである「求不得苦」(ぐふとっく)、

五蘊と呼ばれる物質や心の様々な働きによって生み出される実体のない物事に執着することよって味わう苦しみである五蘊盛苦(ごうんじょうく)と呼ばれる四つの苦しみを加えた全部で八つの苦しみが八苦(はっく)として位置づけられたうえで、

人間の生きること本質がこうした四苦八苦に象徴される苦しみにあるという真理が苦諦(くたい)と呼ばれることになる。

そして、それに対して、

そうした苦を招き集める原因となる苦しみの根源が自らの欲望にあるという真理が集諦(じったい)、そうした苦しみの根源にある欲望を滅却していくことによって苦しみの無い理想の境地へ至ることができるという真理が滅諦(めったい)、そして、そうした苦滅の境地へと至る解脱への道を示す真理が道諦(どうたい)と呼ばれたうえで、

こうした苦諦・集諦・滅諦・道諦と呼ばれる四つの真理を把握することによって体得されることになる悟りの状態が仏教思想における諦観の境地として位置づけられることになるのである。

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スピノザの『知性改善論』における人間の不幸の根源にある滅ぶべきものへの愛と執着の問題

そして、それに対して、

17世紀のオランダの哲学者スピノザによって書かれた人間の精神が永遠なる真理へと至るための哲学的探求の道のあり方が記された書物である『知性改善論』においては、人間が自らの人生において経験していくことになる様々な苦しみの根源は以下のようなものに求められると説かれている。

「ところで、こうした災いは、私には、次の事実から、すなわち、すべての幸福あるいは不幸はただ我々の愛着する対象の性質にのみ依存するという事実から生じるように思われた。

まったくのところ、愛さないもののためには決して争いも起こらないであろう。それが滅びたからといって悲しみがわくこともないし、他人に所有されたからといって嫉妬することもない。

また、何らかの恐れ、何らかの憎しみ、一言でいえば、何らかの心の動揺が生じることもないだろう。

実際、これらのすべてのことは、我々がこれまで語ってきた一切のもののような滅ぶべき事物を愛する時に起こるのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、15~16ページ参照。)

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つまり、スピノザは、人間におけるすべての苦しみの根源は、いずれは滅び去っていく実体を持たない存在に対する愛と執着にあると考えていたということであり、前述した仏教思想における四苦八苦と呼ばれる苦しみのあり方になぞらえて語るならば、

スピノザが言う「愛することによる不幸」とは仏教における「愛別離苦」に、「恐れや憎しみ」とは仏教における「怨憎会苦」に、

「他人に所有さることによる嫉妬」とは仏教における「求不得苦」に、「滅ぶべき物への愛着」とは仏教における「五蘊盛苦」にそれぞれ対応づけていくことができると考えられる。

そして、そういった意味では、

こうしたスピノザの『知性改善論』語られている、滅びゆくもの、実体を持たない存在に対する愛や執着から離れることによって永遠なる真理へと至ることができるとする哲学思想は、仏教思想における四諦を中心とする諦観の境地へも通じるところがあると考えられるのである。

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スピノザの永遠無限なるものへの愛の思想と仏教における諦観の境地

しかし、その一方で、

仏教思想においては、そうした人間の生における苦しみの本質を見抜くことによって、そうした四苦八苦から脱する悟りの状態そのものが人間が至るべき諦観の境地であると説かれているのに対して、

西洋哲学におけるスピノザの思想においては、そうした苦しみの根源にある実体を持たない滅びゆく存在への愛と執着から離れた先に、さらなる不動なる永遠の真理を求めていくという点において、両者の思想のあいだには大きな方向性が見いだされていくことになる。

そして、スピノザは、そうした滅びゆくもの、実体を持たない存在に対する愛や執着から遠く離れたうえで、人間の精神が愛するべき一つの存在について、それは以下のようなものであると語っている。

「しかるに、永遠無限なるものに対する愛は、純粋なる喜びをもって精神をはぐくむ。そしてそれは、あらゆる悲しみから離絶している。

これこそが極めて望ましいものであり、すべての力をあげて求めるべきものなのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、16ページ参照。)

つまり、スピノザは、そうした永遠無限なるものへの愛、すなわち、神とも呼ばれる存在への認識へと至るような精神の限りない上昇の道に、そうした永遠なる真理へと至る哲学的探求の道を求めたと考えられるということであり、

そうした点においては、こうしたスピノザの哲学と仏教思想という二つの思考の方向性には大きな隔たりがあると解釈することもできる。

しかし、その一方で、

仏教思想において、すべての欲望、愛着や執着から離れた先に至ることになる悟りや諦観の境地においても、そうした諦観の境地に至ることによって心が深く満たされていくという四諦という永遠なる真理に対する愛だけは最後まで残り続けるとも考えられることになるため、

そういった意味では、こうした仏教における諦観の境地と、スピノザの永遠無限なるものへの愛の思想という二つの思想のあいだには、一つの真理を二つの方向から照らし出しているかのような両者の思想の根源における深い共通点を見いだしていくことができると考えられるのである。

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