スピノザは自らの哲学的探求における思考の道筋や方向性をメタ的な視点すなわち俯瞰的な視点から書き記した書物である『知性改善論』において、

事物や概念に対する人間の知覚や認識のあり方を四つの認識様式へと分類したうえで、そうした四つの認識様式のなかで、どのような認識のあり方がスピノザが探求する永遠なる真理へと至ることができる最も優れた認識のあり方であるのかを深く吟味している。

そしてこうしたスピノザの認識論哲学においては、現代の論理学や認識論における演繹的推論や帰納的推論と呼ばれる推論のあり方へも通じていく思考の道筋を読み解いていくことができる。

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『知性改善論』における四つの認識様式の区分と聞き覚えと経験に基づく認識

スピノザの『知性改善論』における記述では、人間の知性におけるすべて認識のあり方は、以下のような四つの認識様式あるいは知覚様式のあり方のうちのいずれかの様式へと区分することができると記されている。

「よく注意すれば、こうした知覚様式(認識様式)のすべては、主として次の四つに還元される。

聞き覚えから、あるいは何らかの慣習的記号から得られる知覚。

漠然とした経験から、言い換えれば、知性によって規定されない経験から得られる知覚。漠然とした経験と言われるのは、それが偶然の出来事に過ぎないからであり、我々がこれと矛盾する他の何らかの事例を知らないという理由で我々に確実視されているに過ぎないからである。

③事物の本質が他の事物から結論される、とはいっても妥当に結論されるわけではない場合の知覚。これは我々がある結果から原因を帰結する時、あるいは、常に何らかの特性を伴っているある普遍的な概念から結論がなされる時に生じる。

④最後に、事物がまったくその本質のみによって、あるいは、その最も近い原因の認識によって知覚される場合の知覚。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、21~22ページ参照。)

ここで人間における一番目の認識様式として挙げられている聞き覚えに基づく知覚や認識とは、一回耳で聞いただけの情報や、音声として丸暗記しているだけの情報のことを意味していると考えられ、

そうした知性による認識のいかなる吟味も判断も行われていない単なる丸暗記の記憶としての認識のあり方は、聞き間違いや誤情報などによる誤りを排除することがまったくできないため、スピノザの認識論においては最も価値のない低次元の認識のあり方として位置づけられている。

また、ここでスピノザが語っている「慣習的記号」とは、人間が日常的に用いている自然言語における文字や言葉のことを意味していると考えられ、

たとえ音声ではなく文字で書かれた情報であったとしても、書き間違いなどが十分に起こりうる以上、そうした文字を介した記憶のみに基づく認識のあり方も音声を介した聞き覚えに基づく認識と同様に確実性の最も低い認識のあり方として位置づけられていると考えられる。

そしてその次に、スピノザは漠然とした経験に基づく認識のあり方を人間の知性における二番目の認識様式のあり方として提示しているが、

前述した一番目の認識様式にあたる単なる記憶や聞き覚えによる認識と、二番の認識様式にあたる経験に基づく認識との特徴の違いは、簡単に言えば、経験の回数の違いにあると考えられる。

例えば、友人の出身地が福島県であるということを飲み会の席で一回聞いただけでは、友人が福岡県と言ったのを聞き間違えたのかもしれないし、友人が適当に嘘を言っていた可能性もあるので、確度が低い情報ということになるが、

実際にその友人が住んでいた福島県の実家にまで何度も足を運んでいくという経験を積み重ねている場合には、自らの複数回におよぶ実際の経験によってその事実を確かめることができる。

あるいは、単なる伝聞情報であったとしても、複数の知人から同じ証言内容を得られることになれば、そうした経験の積み重ねにおいて情報の確度が担保されることになるとも考えられることになる。

しかし、こうした経験に基づく認識についても、それはいかなる意味でも論理的な推論を伴うことがなく偶然的な出来事の認識の領域の内にとどまることになるため、こうした経験に基づく認識のあり方もスピノザの認識論においては、永遠なる真理へと至ることはない不確実な認識として切り捨てられることになるのである。

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スピノザの認識論における演繹的推論と帰納的推論の関係

そして、それに対して、スピノザは、

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三番目の認識様式として、「結果から原因を帰結する認識」、すなわち、個別的な事例や具体的な事実の集積からそれらの個別的な結果の原因となった普遍的な法則を見つけ出していく推論方法にあたる帰納的推論のあり方を提示している。

スピノザがこの項目の後半部分において語っている「何らかの特性を伴っているある普遍的な概念から結論」という表現は、少しわかりにくいところがあるが、

スピノザは、そうした認識の具体的な例として、人間が自らの視力の本性という普遍的な概念についての知見を得たのち、そうした普遍的な概念に基づいて、太陽が実際には自分の目に見えているよりも大きいということを認識するという事例を挙げている。

そして、こうした認識のあり方においては、視力の本性という普遍的な概念そのものは、自分の手に持っているリンゴの大きさが遠くに建っている家と同じくらいの大きさに見えるといった様々な個別的な事物の見え方の集積から視力の本性についての普遍的な法則を導き出すという帰納的推論に基づく知見であると考えられるため、

スピノザは、そうした認識のあり方も、結果から原因を帰結する帰納法的な認識のあり方として位置づけていると考えられる。

そして、それに対して、スピノザは最後に、

四番目の認識様式のあり方として、事物が自らが持つ「本質のみによって把握される認識」のあり方を提示している。

ここでスピノザは、そうした四番目の認識様式の具体的な例として、数学者がユークリッドの定理に基づいて比例という概念の普遍的な本質からあらゆる数式における数の比例関係を把握していることを例に挙げているように、

こうしたスピノザの言う四番目の認識様式は、一般的には、推論の土台となる前提や概念の本質から普遍的な論理規則にしたがって必然的な結論を導き出していく推論方法にあたる演繹的推論のことを意味していると解釈することができる。

そして、スピノザは、そうした一般的には演繹的推論と呼ばれている四番目の認識様式にあたる「本質のみによって把握される認識」によってのみ、

哲学的探求の究極の目標にあたる永遠なる真理へと至る道を見いだしていくことができると主張していると考えられるのである。

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知的直観への確信としてのスピノザの認識論哲学の根本にある思想

しかし、話はそれだけでは終わらず、その一方でスピノザは、

こうした「本質のみによって把握される認識」という四番目の認識のあり方は、究極的にはそうした定理からの推論というよりは、数学者や哲学者といった適切な知性の鍛錬を積んだ人々であれば、たとえそうした定理についての前提となる知識がいっさいなかったとしても、そうした事物の本質のみの基づく認識について、

「直観的に、何の手続きもなしに見ることができる」(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、25ページ参照。)

と語っている。

つまり、こうした『知性改善論』における記述のなかで語られているスピノザの認識論においては、普遍的な概念から個別的な概念や事例についての結論を導き出していくという一般的な演繹的推論のあり方にとどまらず、さらにもう一歩踏み込んで、

そうした「本質のみによって把握される認識」というものは、最終的には、いかなる推論の働きをも超えて普遍的な概念そのもの本質から直接的に、すなわち、直観的に把握することができるものであるということが語られているということであり、

それが最初に挙げた引用箇所においてスピノザ自身がこうした「本質のみによって把握される認識」というものを「最も近い原因の認識によって(直観的に)知覚される場合の知覚」と述べていることの本質的な理由となっていると解釈することができる。

そして、そういった意味では、

そうした哲学的探求において常に追い求められていくことになる永遠なる真理というものは、いかなる感覚や経験、さらには、論理的な推論の過程を経ることもなしに、

そういた真理の本質そのものは、哲学的思考の鍛錬を積んだ人間の知性においては、最終的に、明晰かつ判明なものとして知的に直観することができるという確信こそが、こうしたスピノザの認識論哲学の根本にある思想であると捉えることができると考えられるである。

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