前回書いたように、スピノザの『知性改善論』における「知性の道具:真の観念について」と題された章においては、
「ペテロの観念の観念」などの比喩的な議論を通じて、人間の知性がいかにして真理の認識、すなわち、真なる観念を把握することができるのかという問題について独特の思想が展開されている。
そして、こうした『知性改善論』におけるスピノザの真理論においては、第三の人間論と呼ばれるアリストテレスなどによるイデア論批判への反駁へとつながる哲学的議論の道筋を見いだしていくことができる。
アリストテレスの第三の人間論におけるイデアの無限遡及の問題
第三の人間論と呼ばれるイデア論批判の議論は、もともと、イデア論と呼ばれる哲学理論の提唱者であるプラトン自身によって書かれた中期対話篇の一つである『パルメニデス』においてすでにその原型となる議論が提示されているが、
こうしたイデア論の問題点を指摘する議論をより整理された哲学的議論として定式化したのはプラトンの弟子にあたるアリストテレスであったと考えられる。
そして、アリストテレスは、こうした第三の人間論と呼ばれるイデア論批判の議論において、具体的には以下のような形でイデアの無限遡及の問題を指摘している。
現実の世界におけるすべての人間はソクラテスやペテロといった固有の人物、すなわち、個物であるのに対して、こうしたソクラテスやペテロといった一人一人の人物が人間であるためには、「人間」という一つの普遍的な概念すなわちイデアを自らの内に持っている必要がある。
つまり、ソクラテスやプラトンといった一人一人の人物は、真の実在である普遍的な「人間」のイデアを自らの内に分有していて、こうした「人間」のイデアの内に包含されているがゆえに人間として存在しているということである。
しかし、ここで一つ問題が生じることになる。
こうしたソクラテスやプラトンという一人一人の人物を人間として規定している「人間」のイデアそのものも現実において存在している以上、それは一つの存在、一つの個物とみなすこともできると考えられるが、
そうすると、ソクラテスやプラトンという「一人一人の人間」と、それらの一人一人の人物を人間として規定している「人間」のイデアのほかに、さらに、こうした二つの人間の存在を共に人間として規定している「第三の人間」のイデアの存在が必要となる。
つまり、一人一人の人物を人間としている「人間」のイデア自身もまたそれが人間として規定されるためには、自分自身が「人間」であるということを規定するためのさらに高次の人間のイデアが必要となるということである。
こうして、「人間」のイデアを人間として規定するためには両者を包含する「第三の人間」のイデアが必要となり、「第三の人間」のイデアを人間として規定するためにはさらに「第四の人間」のイデアが必要となるというように、「人間」のイデアをめぐる思考の旅は無限遡及を続けていくことになり、
いつまでたっても、すべての人間を人間として規定することができる真なる実在としての唯一の普遍的なイデアの存在へと至ることはできないと考えられるのである。
スピノザの『知性改善論』に基づく第三の人間論に対する反駁
こうしたアリストテレスの第三の人間論におけるイデアの無限遡及の問題についてのスピノザの見解は明らかであり、具体的には『知性改善論』における以下の箇所において、イデアすなわち真なる観念の無限遡及の問題へのスピノザによる否定的な見解が示されている。
「まず注意すべきことは、無限に続く探求はあり得ないということである。
すなわち、真理探究の最上の方法を見いだすためには、この真理探究の方法を探求する他の方法が必要ではなく、また、第二の方法を探求するために他の第三の方法が必要なわけではない。このようにして無限に進む。
実際こうしたやり方では、我々は決して真理の認識に到達することはできないであろう、いや、およそいかなる認識にすら到達し得ないであろう。」
(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、28~29ページ参照。)
そして、スピノザは、真理の認識、すなわち、真なる観念へと至る哲学的探求の道が前述したアリストテレスの第三の人間論におけるような無限遡及の問題へと陥ってしまうことを避けるための方法論として、前回も取り上げた「ペテロの観念の観念」の議論を提示していると解釈することができる。
「ペテロの観念の観念」の議論においてスピノザは、ペテロの本質を理解する、すなわち、ペテロという真なる観念を把握ために、ペテロの観念や、ペテロの観念の観念を理解することは不要であり、
それは、「知るためには知っていることを知る必要がなく、ましてや知っていることを知っているということを知る必要がない」のと同じであると語っている。
なぜならば、私が知っていることを知るためには、必然的にまず知らなければならないのであるから。
つまり、スピノザは、これらの観念同士の関係はむしろ逆であって、
人間の知性は、ペテロという真なる観念をすでに確実に把握しているがゆえに、そうしたすでに自らの知性の内に存在する真なる観念に基づいて、ペテロの観念や、ペテロの観念の観念をも真なる観念として新たに認識できるということを主張していると考えられるのである。
そして、これをアリストテレスの第三の人間論におけるイデアの無限遡及の問題にあてはめて語るならば、それは以下のようになる。
ソクラテスやペテロといった一人一人の人間は、自らの存在の外にある「人間」のイデアや、ましてや、「第三の人間」のイデアの存在によって人間として規定されているのではなく、
ソクラテスやペテロという一人一人の人間の存在そのものがすでに真なる観念、すなわち、真なる実在としてのイデアなのであって、
人間の知性は、自らの外にあるイデアではなく、自らの内にある明晰かつ判明なる真なる観念としての生得的なイデアの存在によって、その他のより複雑で高次なイデアすなわち真なる観念についての理解を深めていくことになる。
つまり、
人間においては、自分自身の精神や意識といったもの存在がすでに一つの真なる観念であり、真なる実在としてのイデアでもある以上、
人間の知性は、自らの精神あるいは意識の内に見いだいしていくことができる思考や自我、論理や秩序、時間と空間、永遠と無限、必然性と完全性といった様々な生得的な真なる観念によって、哲学的探求が目指していくより高次な真理の認識へと到達していくことができると考えられるのである。
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