前回までの議論で書いてきたように、スピノザの『知性改善論』において語られている人間の知性による真理の認識についての哲学的議論においては、

人間は自らの知性の内に見いだしていくことができる最も確実で明証的な真なる観念に基づいて、最終的には哲学的探求が目指す永遠の真理へと至ることができるという考え方が示されている。

そして、こうした永遠の真理へと至る際に人間の知性が歩んで行くことになる具体的な哲学的探求の歩みのあり方について、スピノザは、

真理とはそれ自身ですでに明白であるとする考え方を示す一方で、人間の知性はそうしたそれ自身としてすでに明白であるはずの真理を推論によって導き出していくという一見すると矛盾するようにも見える真理の認識についての二つの見解のあり方を示している。

スポンサーリンク

真理の認識のために必要な自らの精神の内的省察と自然の秩序の理解という二つの道

スピノザは『知性改善論』の「正しい認識方法について」と題された章の冒頭部分において、以下のような形で、人間の知性が真なる認識へと至るために必要な具体的な方法論のあり方を示している。

「(真理の認識へと至るための)真の方法は、その観念を獲得した後に真理の標識を求めることには存せずに、かえって真理そのものが適当な秩序によって求められるための道に存するということが帰結される。

したがって、そうした真の方法は、必然的に推論の仕方理解の仕方について語らなければならない。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、33ページ参照。)

ここでスピノザは、人間の知性が真理の認識に至るための方法としては、正しい秩序に従った推論の仕方や、知識についての正しい理解のあり方を吟味していくことが必要であるということを語っている。

そして、さらにその少しあとの箇所においては、こうした正しい推論や正しい理解といった認識方法が、人間の知性において実際に獲得されていく具体的な過程について、スピノザは以下のようにも語っている。

「精神は自らの力をよく理解すればするだけ、ますます容易に自分自身を導くことができる。…また、自然についての秩序をよく理解すればするだけ、ますます容易に自らをもろもろの無益なものから遠ざけることができる。

これらの点に、先に行ったように、(真理の認識へと至るための)すべての方法が存するのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、35ページ参照。)

つまり、スピノザは、人間の知性が真理の認識へと至る正しい認識方法を獲得するためには、自らの精神における内的省察と、自然の秩序についての理解という二つの方向へと進む道を同時に深く探求し続けていくことが必要であるということを主張していると考えられることになるのである。

スポンサーリンク

「真理は自己自身によって自らを明らかにする」という格言に込められたスピノザの真意

しかしその一方でスピノザは、冒頭でも述べたように、

真なる観念としての真理の認識そのものは、そうした真なる観念そのものの存在以外には、その真理性を保証するような真理の標識となるようなその他の存在を必要とせず、真理とはそれ自身ですでに明白であるということも語っている。

つまり、そういった意味では、真理の認識へと至るためには、正しい推論の仕方や理解の仕方といった正しい認識方法を獲得していくことが必要であるとするスピノザが語っている前述したような考え方は、

スポンサーリンク

それ自身においてすでに明白であるはずの真理を、推論によって論証しなければ真理として認めることができないという、一見すると矛盾する主張になっているとも解釈することができると考えられることになるのである。

そして、こうした真理の認識における明証性と推論による論証の問題の本質を、スピノザは、ラテン語の原文における以下のような言葉によって端的に表現している。

「真理は自己自身によって自らを明らかにする」(Veritas se ipsam patefacit(ウェリタス・セー・イプサム・パテファキト)

冒頭でも述べたように、スピノザの真理論における考え方に基づくと、真理とはそれ自身においてすでに明白なものである。しかし、そのことは、真理とは誰の目にも明らかですぐに理解されるような簡単なものであるということを意味するわけではない。

ちょうど重力や万有引力といったものがリンゴの実が木から落ちるといった日常的な出来事のうちに常に明白に存在しているからといって、一般の人々がそうした普遍的な力の存在にすぐに気づくことは困難であり、そこにはニュートンのような数学者たちが持つ偉大な知性の存在が必要となるように。

もしも、ブッダやキリストのような神にも近い優れた知性を備えた覚者であるとするならば、自らの精神の内にある真なる観念の導きにしたがって、この宇宙におけるあらゆる真理を一挙に自らの知性によって把握することは原理的に不可能なことではないと考えられる。

しかしその一方で、そうした研ぎ澄まされた崇高なる知性と優れた感性を備えた超人とも言うべき特別な精神を備えた人物ではない限り、人間の目の前にすぐにそうした真理そのものが自明のものとして与えられるようなことはなく、

通常の知性を持った人間がそうした真理の認識へと至るためには、正しい推論方法を用いて世界と自己についての理解を深めていくという哲学的探求の果てしない道を歩んで行くことが必要となると考えられる。

そして、そうした哲学的探求の道のりにおいて、真理は人間の知性による推論の積み重ねによってはじめて証明されていくわけではなく、そうした人間の知性による哲学的探求と呼応して「自己自身によって自らを明らかにしていく」というのが、上記のラテン語の格言において示されているスピノザの真意であると解釈することができる。

そして、そういった意味では、上記のラテン語の格言において、

真理の認識における明証性の本質が「明らかにされる」という受動態ではなく、「明らかにする」という能動態の形で表現されているということも一つの注目すべき点となっている。

つまり、こうしたそれ自身においてすでに明白である真理というものは、人間の知性にとっては、それをいつまでも放置しておいて漫然として生きている間に自然に明らかになってくるようなものではなく、

自らの知性による能動的な働き、すなわち、人間の精神と知性による真摯な哲学的探求の道の末に自らを明らかにするものであると考えられるということである。

そして、そういった意味において、

ブッダやキリストのような神の認識にも近い卓越した知性の力によって獲得される永遠なる真理についての直観的な認識と、

哲学を志す人々がそうした果てしない哲学的探求の道のりの末にたどり着くことになる真理の認識というのは、究極的には一致することになるというのが、

こうした「真理は自己自身によって自らを明らかにする」という格言に象徴されるスピノザの真理論の根底にある思想であると考えられるのである。

・・・

「哲学」のカテゴリーへ

スポンサーリンク