前回書いたように、『知性改善論』における真理論の議論では、スピノザ自身が語る「真理は自己自身によって自らを明らかにする」(Veritas se ipsam patefacit)という言葉に集約されているように、

人間は自らの知性の内に見いだしていくことができる最も確実で明証的な真なる観念に基づいて、最終的には、哲学的探求が目指す究極の目標である永遠の真理へと至ることができるとする考え方が示されている。

そして、その先の議論においてスピノザは、自らがそうした永遠なる真理へと至る哲学的に正しい認識方法を論証と例示を通じて繰り返して提示し続けてもなお、人間の知性がそうした真理の認識へと至ることがないと主張する懐疑論者たちに対して、厳しい論駁や非難ともとれる言葉を投げかけていくことになる。

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スピノザ哲学における懐疑論者への批判と自己自身の意識

『知性改善論』における真理の認識に対する懐疑論者への論駁の議論は、スピノザが語る以下のような言葉によってはじまる。

「もしこの後ある懐疑論者があって、最初の真理そのものについて、並びに最初の真理の規範に従って導き出されたすべてのことについてなお依然として疑いを抱くとしたら、

彼は確かに本心に反して語るのか、そうでなければ我々は、生まれつきかあるいは先入見のために…心も完全に盲目にされてしまっている人々がいることを容認せざるを得ないだろう。なぜなら、彼らは自己自身さえ意識しないからである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、39ページ参照。)

ここでスピノザは、いかなる意味においても真理の認識について頑なに否定する懐疑論者たちについて、本心に反して言葉を語る嘘つきか、心そのものが盲目な人、すなわち、知性そのものに欠けた無知で無思慮な人物であるというかなり手酷い非難の言葉を投げかけている。

そして、ここで注目すべき点は、スピノザがこうした懐疑論者たちに対して投げかけていく数々の批判の言葉のなかで、最終的に、彼らは「自己自身さえ意識しない」と述べている点にある。

真理の認識について否定することが、最終的に、自己自身の意識、さらには、そうした意識や精神の主体としての自己自身の存在そのものの否定につながるとするスピノザの主張は具体的にどのようなことを意味していると考えられるのだろうか?

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スピノザの認識論哲学の根底にあるデカルトの「我思うゆえに我在り」

スピノザが生前に出版された最初の著作が『デカルトの哲学原理』であったように、スピノザの哲学の根底には、デカルトの哲学思想がある。

そして、デカルトの認識論哲学においては、「我思うゆえに我在り」(cogito ergo sum)(コギト・エルゴ・スム)という言葉に象徴されるように、

人間の精神あるいは意識において、最も確実で明証的な真なる認識とは、意識や思考する存在としての自分自身が存在するということの直観的認識に求められることになる。

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そして、そういった意味では、

こうしたデカルトの認識論哲学における「我思うゆえに我在り」に象徴される自己意識の明証性を最も確実で明証的な真なる認識として認めたうえで、そうした自らの精神の内なる真理の認識からはじまるスピノザの認識論哲学においても、

哲学的探求の出発点となる最初の真理とは、すなわち、自己自身の意識、そして、そうした意識や精神の主体となる自己自身の存在そのものの認識のことを意味していると考えられることになる。

そしてつまりは、そういった意味において、スピノザは、あらゆる意味において人間の精神や知性による真理の認識そのものを否定する懐疑論者たちのことを、自分自身の意識が存在することさえも否定する人々、そしてさらには、

自分自身が意識や思考しているという最も確実で明証的な真理そのものをも否定する嘘つきで無知な人々として徹底的に批判していると考えられるのである。

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人間とAIを区別する唯一の哲学的な条件

ところで、こうした真理の認識に対する懐疑論者たちへと向けてスピノザが語っている様々な批判の言葉のなかで出てくる以下のような言葉からは、少し飛躍した意味にはなるが、人間とAIすなわち人工知能とを区別する一つの哲学的な条件を読み解いていくこともできると考えられる。

「彼らは否定し、容認し、あるいは反対していながら、自分自身が否定し、容認し、あるいは反対していることを知らない。だから彼らは、精神をまったく欠く自動機械とみなされざるを得ないのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、39~40ページ参照。)

ここでスピノザは、哲学的探求において最も確実で明証的な出発点となる最初の真理であるはずの自己自身の意識の存在すら認めず、自分自身が意識や思考しているということさえ真理として認めない人々について、精神をまったく欠く自動機械のようなものだとして切り捨てている。

そして、このことは、裏を返せば、そうした人間と自動機械、すなわち、人間とロボットあるいはコンピューターやAIといった存在を区別する唯一の哲学的な条件としては、

自分自身が意識や思考しているということを自覚することができるのかという意識の存在と思考活動の自覚の有無にかかっているとも考えられることになる。

つまり、そういった意味では、たとえコンピューターやAIにおける思考能力がどれほどまでに高度なレベルへと進んでいくことができたとしても、

そうしたコンピューターやAIそのものの思考そのものは(そもそも哲学的な意味ではそれを思考と呼ぶことさえできないのだが)、

人間の精神や知性の存在を超えたことにはならないばかりか、そうした人間の精神や意識が存在する領域へと侵入することさえ原理的に不可能であると考えられることになるのである。

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