前回までに書いてきたように、スピノザの『知性改善論』における認識論の議論では、人間の知性は、自らの内に見いだいしていくことができる自己意識の存在といった最も確実で明証的な真なる観念に基づいて、

そうした真なる観念を規範とした正しい秩序に従ってより高次の真なる観念を見いだしていくことによって哲学的に正しい認識へと至ることができるということが語られている。

それでは、こうした人間の精神が自らの内に見いだしていくことができる最初の真なる観念から導き出されていく新たな真なる観念というものは、そうした真なる観念以外の観念、すなわち、虚偽の観念や虚構された観念と呼ばれるような観念と、いったいどのような形で区別していくことができると考えられるのだろうか?

スポンサーリンク

虚構された観念と真なる観念との区別の問題とラテン語におけるfictioの意味

『知性改善論』の「方法の第一部:虚構された観念について」と題された章では、スピノザ自身の言葉としては、具体的には以下のような形で、哲学的探求の方法論は、こうした真なる観念と虚偽の観念あるいは虚構された観念とを区別することから始まると語られている。

「そこで我々は方法の第一部から始めよう。それは既に述べたように、真なる観念を他の諸知覚から区別し分離して、虚偽の観念虚構された観念および疑わしい観念を真の観念と混同しないように精神を抑制することにある。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、41ページ参照。)

ここに記されている「虚構」という言葉は、ラテン語の原文においては、fictio(フィクティオ)という単語が用いられているが、この単語は「形成」や「創作」といった意味を表すラテン語の名詞にあたり、英語におけるfiction(フィクション)の語源ともなっている。

つまり、スピノザは、人間の知性が自らの意識の内に存在する真なる観念から導き出していくことができる新たな真なる観念を、単に自分の頭の中で考えただけの想像や物語のなかに出てくる想像上や創作上の観念としての虚構された観念と混同することなく、両者をどのような形で区別していくことができるのかということを問題としていると考えられるのである。

スポンサーリンク

スピノザの認識論における必然・可能・不可能という三つの様態の区分

そして、こうした虚構された観念と呼ばれる観念の本質がいかなるものであるのかを分析していくために、スピノザは、人間の知性によって認識されることになるあらゆる観念の性質を以下のような形で、必然・可能・不可能という三つの様相へと区分していったうえで、

虚構された観念というものは、そのうちの真ん中に位置する可能的な観念についてのみ成立するという議論を展開していくことになる。

「私が不可能と呼ぶのは存在することがその本性に矛盾するもの、必然と呼ぶのは存在しないことがその本性に矛盾するもの、可能というのはそのものの本性上は存在するとしても矛盾がなく、むしろその存在の必然性あるいは不可能性は、我々がそれぞれの存在を虚構している間は我々に知られていないところの諸原因に依存するものである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、43ページ参照。)

例えば、

自分自身の意識や思考の存在については、意識など存在しないと考えている時点で、そうした自らの思考の存在を意識していることになるので、存在しないことがその本性に矛盾する必然的な観念ということになるし、

スポンサーリンク

巨大な象が小さな針の穴をくぐり抜けていくといった物理的あるいは論理的に成立し得ない事象などは、存在することがその本性に矛盾する不可能な観念ということになる。

そしてそれに対して、例えば、

明日の朝は雨が降るといった観念については、通常の場合は、それが現時点においては必然とも不可能とも判定することが難しい以上、可能的な観念とみなすことができることになり、

スピノザは、虚構された観念が真なる観念と混同されてしまうケースは、観念がこうした可能的な観念の領域のうちに存在していることによって生じることになると主張していると考えられるのである。

ちなみに、通常の認識論や論理学の枠組みの中では、「必然」に対応する様相としてさらに「偶然」という様相が挙げられることになるが、

上記のスピノザの認識論における三つの様相の枠組みのなかでは、こうした偶然と呼ばれる様相は、結局のところ、可能的な観念についてのみ成立することになるので、スピノザはそうした一般的には偶然と呼ばれている様相も含めた概念として可能的な観念という枠組みを提示していると考えられる。

スポンサーリンク

不可能性が排除された必然的な観念としての真なる観念の定義

そして次にスピノザは、こうした真なる観念と混同される可能性のある虚構された観念というものを認識の内から排除していく方法について、以下のような少し難解な言葉の言い回しによって説明している。

「だからもし、外的原因に依存するその必然性あるいは不可能性が我々に知られたとなると、我々はそれについて何事をも虚構することができなくなる。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、43ページ参照。)

上記の箇所においてスピノザが意味している考えられる具体的な主張は以下のようなものであると考えられる。

前述したように、虚構された観念が存在する土台となっている可能的な観念というものは、その観念の存在そのものは本性上は必然でも不可能でもなく、その存在の成立がいまだ知られていない諸原因、すなわち未知なる外的原因に依存している観念のことを意味している。

したがって、そうした可能的な観念についての吟味と省察を行う哲学的探求を通じて、今までに知られていなかった外的原因の存在が明らかになれば、そうした可能的な観念はいずれは必然的な観念か不可能な観念かのいずれかへと振り分けていくことができると考えられる。

例えば、気象衛星によって得られたデータを詳細に分析することによって、日本の周囲が高気圧に覆われていてしばらくの間は雲一つ存在しない状態が続くことが明らかとなれば、明日雨が降るという可能的な観念は、その存在が不可能な観念へと振り分けられていくことになるように。

そして、こうした哲学的探求を通じて、虚構された観念が成立する土台となっている可能的な観念の範囲を狭めていくと、この世界のうちに存在するすべての可能的な観念は、原理的には、不可能な観念と必然的な観念のいずれかへと振り分けられていくことになり、このようにして、

この世界のうちに存在するあらゆる可能的な観念のなかから、その存在が不可能となる可能性のある虚構された観念を取り除いていったうえで、それでも残り続けていくことになる必然的な観念こそがスピノザが求める永遠なる真理へと通じる真なる観念であると考えられることになるのである。

・・・

「哲学」のカテゴリーへ

スポンサーリンク