前回書いたように、スピノザの『知性改善論』における「方法の第一部:虚構された観念について」と題された章では、虚構された観念と真なる観念とを正しく区別していくことによって、人間の精神がいかにして正しい認識へと至ることができるのかという哲学的探求の指針となる方法論が示されている。

そして、こうしたスピノザの認識論哲学における虚構された観念と真なる観念との区別の議論は、人間の精神が自らの働きによってつくり上げた夢の中の世界と現実の世界をいかにして区別していくことができるのかという夢と現実を区別する哲学的な根拠をめぐる議論へもつながっていくことになる。

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スピノザの認識論における夢と現実の区別の議論と荘子の「胡蝶の夢」

『知性改善論』の「方法の第一部」において、スピノザは、夢と現実を区別することにさえ異を唱えて、すべての存在はどこまでも限りなく疑わしいとする徹底的な懐疑論者たちのことを指して、具体的には以下のような人々であると語っている。

「彼らはだから次のような人々に似ている。その人々というのは以前には目覚めていた時に自分が目覚めているということを疑わなかったが、しかしよくあるように、

一度、夢の中で自分が確かに目覚めていると思ったのに、後でそれが偽りであると分かってからは、自分が目覚めているかどうかについても疑うようになった人々のことである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、41ページ参照。)

ここでスピノザは、荘子の「胡蝶の夢」の話にも出てくるような夢の世界と現実の世界の区別における認識論上の本質的な問題について指摘を行っていると考えられる。

荘子の「胡蝶の夢」においては、この作品の著者でもある荘周は、自分が夢の中で蝶となり生き生きと自由に空を飛び回っていたことを思い出して、

自分が蝶として空を舞っていった夢の世界の方が本当は現実だったのかもしれず、今、現実だと思っている世界の方が実は夢の中なのかもしれないという疑問を提示したうえで、

実際には、夢と現実という区別自体が定かなものではなく、自分はある時は、胡蝶となり、別のある時には、人間となっているに過ぎないのかもしれないという相対主義的な考え方が示されている。

そして、それに対して、スピノザは、そうした夢と現実の区別をめぐる疑問が生じることは当然のこととして認めたうえで、そこからさらに一歩先へと進んで、それでもなお、睡眠と覚醒、すなわち、人間の精神が夢と現実の存在を明確な根拠をもって区別することは十分に可能であると主張するのである。

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夢と現実の区別がなくなると人間の精神はすなわち神となる

スピノザは、夢と現実を区別する合理的な根拠そのものを疑っていく徹底的な懐疑論者について、同じ章の後半部分においてさらに以下のように語っている。

「彼らの言うところに従えば、精神は自分自身や存在する諸物ではなく、反対に、自分自身の中にも他のどこにも存在しないもののみを感覚し、多様な仕方で知覚し得るのであり、言い換えれば、精神は自分の力だけで事物と関連のない感覚あるいは観念を創り得るのだ。

従って、彼らは精神をほとんど神のように考えているのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、50ページ参照。)

夢の中に出てくるあらゆる存在や出来事は、人間の心が作り上げた実体を持たない想像やイメージということになるが、もしも夢と現実の区別そのものが存在しないとすると、

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人間の精神は、夢の世界と現実の世界におけるすべての事物を自分の力だけで新たに一から創造したということになる。

そしてそれは、人間の精神が天地を創造したとされる神にも比肩する絶大なる力を持っているということを認めることになるというのが上記の文章においてスピノザが主張していることだと考えられる。

さらに言えば、人間の精神が一般的には現実と呼ばれているこの世界におけるあらゆる存在を自らの力で創造したとするならば、それは当然、この世界を形づくっている自然法則なども含めたあらゆる普遍的な秩序をも自らの力によってつくり上げたということになるが、

こうしたことは、人間の精神というものを、我々が通常、自分自身によって意識している個人的な心や意識のことを意味する概念として捉える限り、その能力を大きく超えた不可能なことであると考えられる。

なぜならば、人間の精神や知性というものは、自然の内に見いだしていくことができると様々な秩序や自己自身の精神の内省、他者との議論や交流などといったことを通じて自然法則や論理法則といった普遍的な秩序のあり方を学んでいくのであって、

それとは反対に、人間の精神や知性の方が、そうした自然法則や論理法則を自らの力によってつくり上げたとは考えることができないからである。

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論理的整合性を哲学的根拠とした夢と現実の明確な区別

それでは結局、スピノザは、具体的にはいかなる哲学的な根拠によって、そうした夢と現実、あるいは、虚構された事柄と現実に存在する真なる事柄とを区別していくことができると考えているのかというと、それについては『知性改善論』のなかでは以下のように語られている。

「精神が虚構されたその本性上は虚偽である事柄に対して、これを吟味し理解することに努めて、そこから導き出されるもろもろの結果を正しい秩序に従って導き出すことに働く時には、精神は容易にその事柄が虚偽であることを看破することができる。

…これは現に上述の偽なる虚構にあたり、知性がたちまち現れて、その不条理なことを、またそこからもろもろの不条理が導き出されることを示したことからも知られるのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、50~51ページ参照。)

つまり、人間の精神は、自らの精神や知性の内にある真なる観念に基づく正しい秩序、すなわち、論理法則や自然法則といった普遍的な秩序に従って、目の前に与えられた様々な事柄を吟味していくことによって、

その事柄が虚構された事柄であるのか現実に存在する真なる事柄であるのか、すなわち、夢の中の出来事であったのか現実に存在する事物であったのかを判断することができると考えられるということである。

そして、そういった意味では、

こうしたスピノザの認識論哲学における夢と現実の区別の議論に基づくと、人間の精神や知性は、

自らの哲学的探求を通じて学んできた真なる観念に基づく正しい秩序、すなわち、目の前に現れている事物や出来事の存在が自然法則に合致しているのか、あるいは、それらの存在そのものが論理法則に反してはいないかを吟味していくという

合法則性論理的整合性といった永遠なる真理へと通じる普遍的な秩序の存在を哲学的な根拠とすることによって、夢と現実とを明確に区別していくことができると考えられるのである。

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