前回書いたように、スピノザの『知性改善論』における夢と現実の区別めぐる議論においては、人間の精神や知性は、合法則性や論理的整合性といった自らの知性の内なる真なる観念を規範とした正しい秩序に基づいて物事の判断を行っていくことによって、

目の前に現れる様々な事物や出来事の表象が虚構であるのか真実であるのか、夢であるのか現実であるのかを明確に区別することができるという議論が展開されている。

そして、こうしたスピノザの『知性改善論』における虚構と真実、夢と現実の区別の議論からは、さらに発展して、誤謬や妄想といった概念についての定義もなされていくことになる。

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明瞭かつ判明な事物の知覚に基づく真実と虚構との区別

『知性改善論』においてスピノザは、前回取り上げたような夢と現実の区別をめぐる議論を踏まえたうえで、そうした現実と夢の区別にも類似している真なる観念と虚構された観念の人間の認識や知覚における区別は、結局、以下のような形でなされていくことになると語っている。

「我々は明瞭かつ判明に事物を知覚する限り、決して虚構に陥る恐れはないであろう。なぜならば、人間が瞬時にして動物に変身するなどとたまたま我々が言う場合、それは極めて一般的に言われるのであり、したがって、精神の中に何らかの明瞭な概念ないし観念、すなわち主語と目的語の連結がないからである。

もしあったとすれば、同時に精神は、どのようにして、また、なぜこうしたことが生じたかの手段と原因を見たはずであるから。そのうえ我々は、このような場合、主語と目的語の本性に何の注意も払っていないのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、51~52ページ参照。)

ここでスピノザが述べている明瞭かつ判明な知覚あるいは認識というものは、最も根源的な意味においては、人間の知性が自らの内に見いだしていくことができる最も確実で明証的な真なる観念である自分自身の意識や知性の存在そのもののことを意味することになるが、

ここでは、そうした自らの知性の内に見いだしていくことができる真なる観念を規範とすることによって導き出される論理的整合性や主語と目的語の連結といった正しい秩序に基づく認識全体のことを指して、こうした表現が用いられていると考えられる。

つまり、人間の知性は、目の前にいたはずの人間が突然に動物に変身することを想像したり、そういう夢を見たり、見間違って誤った判断を下してしまったりする時に、

主語と目的語、あるいは、原因と結果などといった概念を正しい秩序にしたがって連結できずに偶然的に不注意な判断をしていると考えられるのであり、

そうした主語と目的語の正しい連結、あるいは、論理的整合性といった正しい秩序に基づいて物事が必然的に判断されていく限り、人間の知性は虚構や誤謬などに陥ることなく、真なる観念を導き出していくことができるということが主張されていると考えられるのである。

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原因と結果の連結などの正しい秩序への意識を基準とした虚構と夢の区別

そして、こうした人間の知性の内なる論理的整合性といった正しい秩序に基づいて導かれていくことになる真なる観念とは対極にある存在である虚構や夢、誤謬や妄想といった観念とは、より具体的にはどのようなものとして定義されることになるのかということについて、

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スピノザは『知性改善論』の「虚構された観念について」と題された章の注釈の部分において以下のように述べている。

 虚構はそれ自体でみれば夢と大差がないこと、ただ夢では原因が意識されていないのに、目覚めている者にはそれが知覚の助けによって分かっていて、それらの表象像が現在の自分の外にある事物から来ているのではないことを判断できるだけの相違であるということに注意してほしい。

誤謬はしかし、すぐに明らかになるように、目覚めていながら夢を見ているのである。そして誤謬があまりに甚だしい時、それは妄想と呼ばれる。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、53~54ページ参照。)

まずは、ここで述べられている夢と虚構との区別について考えていくと、虚構の場合には、例えば、ある人が一時間後に雨が降るかもしれないと虚構している時に、その人はまだ自分がいる場所の近くに雨雲が迫ってきているかどうかを知らないわけだが、

もし雨雲が近づいているとすればそれが原因となって雨が降るという原因と結果の連結そのものは明確に意識しているので、その人に雨雲レーダーなどの的確な情報が与えられて近くに雨雲がないことが分かれば、そうした原因と結果の正しい連結に基づいて、一時間後に雨が降るという虚構は取り下げられることになる。

しかし、その一方で、ある人が夢の中で突然に雨が降ってきたと言う時、夢の中で眠った状態にある知性は、その雨がどこからやって来たのかという原因を意識することはほとんどできないし、

そもそも、夢の中の世界で起きる出来事というのは、原因と結果、主語と目的語といった事物や出来事の正しい秩序など関係なく、ただデタラメに様々な表象が現れては過ぎ去っていくので、そうした論理的整合性といった正しい秩序に基づく認識そのものが成立しないと考えられるのである。

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部分的に夢を見ている状態としての誤謬の定義と意識全体が夢と混同された妄想の状態

そしてスピノザは、こうした夢と虚構における区別に基づいて、誤謬すなわち間違った認識というものは、虚構よりもむしろ夢に近い認識状態にあると指摘しているところがこの議論における一つの興味深い点となっていると考えられる。

1+2が3ではなく、1+2が4になるという間違った認識、あるいは、精神は丸や四角といった形を持っているという誤謬へと陥っている人がいる時、

その人は、自らの知性に正しい情報が与えられていないためにそうした間違った認識を持っているのではなく、自らの知性の内なる正しい秩序そのものを見失っていて、部分的に正しい判断ができなくなっているがゆえに誤謬へと陥っていると考えられるので、

それは、その人の全体としての意識は目覚めた状態にありながら、個別の認識においては知性が眠っていて正しい秩序を見いだせないでいるという部分的に夢を見ている状態に近いと考えられることになる。

そして、そうした人間の精神や知性そのものの混乱や荒廃の状態がさらに進展していくことになると、人間は目覚めながらにして常に夢を見ているような混乱した状態、

すなわち、妄想を抱き続けている状態へと陥ってしまうことになるということが上記のスピノザの言葉において示されている誤謬と妄想という二つの概念についての明確な定義となっていると考えられるのである。

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