前回までに書いてきたように、スピノザの『知性改善論』における「虚構された観念」の章においては、夢と現実、誤謬と妄想といった様々な概念の分析を通じて、人間の知性が正しい認識へと至るための拠り所となる真なる観念と虚構された観念との区別についての考察が進められていくことになるが、

こうしたスピノザの認識論において虚構された観念と明確に区別されていくことになる真なる観念の定義は、最終的に、最も単純な観念、または、そうした最も単純な観念の合成によって成り立つ観念のいずれかへと行く着くことになるということが示されていくことになる。

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多数の要素から合成された部分的な認識としての虚構された観念の定義

『知性改善論』における「虚構された観念」の後段の部分における議論において、スピノザは、人間の知性が哲学的探求において真なる観念の認識へと至るためには、自らの知性の内に見いだされることになる最初の真なる観念から正しい秩序に基づいて認識を構成していくことが必要であるということを改めて確認したうえで、

そうした人間の知性が真なる観念ではなく虚構された観念の認識へと陥ってしまう時には、人間の意識の内において具体的には以下のような誤った認識の働きが生じているということを語っている。

「最初の観念が虚構されたものではなく、しかもその最初の観念から他の一切の観念が導き出されさえするなら、虚構するというような軽率は次第になくなってしまうであろう。

次に、虚構された観念は、明瞭かつ判明ではあり得ずもっぱら混乱したものであるが、すべての混乱は、精神がまとまった事物あるいは多数の要素から合成された事物を部分的にしか認識せず、また、認識されたものとされないものとを区別しないということから、

さらにまた、おのおのの事物に含まれている多数の要素に対して、何の区別もなしに同時に注意を向けるということから来るのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、52ページ参照。)

ここで述べられている明瞭かつ判明な観念としての真なる観念の定義は、デカルトやスピノザの哲学においては、真なる観念の最も重要な定義となっていて、

それは最も根源的な意味においては、人間の知性が自らの内に見いだしていくことができる自分自身の意識や知性の存在そのものの内に起源を持つことになる。

そして、それに対して、虚構された観念というものは、そうした真なる観念における最も重要な定義となっている明瞭かつ判明という条件を満たすことはあり得ず、

それはむしろ、多数の要素から合成された全体の構造が不明瞭な観念のことを意味していて、しかも、そうした多数の要素から合成された観念が全体として明確に認識されることなく、部分的に不完全に認識されたままの状態にとどまることによって、あらゆる虚構された観念が生じていくことになるということが主張されていると考えられるのである。

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単純な観念がすなわち真なる観念として位置づけられる理由

そして、こうした多数の要素から合成された事物の部分的で不完全な認識としての虚構された観念の定義に基づいて、スピノザは、真なる観念の定義についても、それを合成された観念の対極に位置する単純な観念との関係において捉え直していくことになる。

「このことから次のことが生じる。すなわち第一に、もし観念が最も単純な事物に関するものなら、それは明瞭かつ判明でしかあり得ないということである。なぜなら、こうした事物は部分的には認識され得ず、完全に認識されるかあるいはまったく認識されないかでなければならないからである。

第二に、もし多数の要素から合成された事物が思惟によってすべての最も単純な部分へと分解されて、そのおのおのに別々に注意が向けられるなら、一切の混乱は消失するであろうということである。

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第三に、虚構は単純なものではあり得ず、むしろそれは自然の中に存在する種々の事物および行為に関する種々の混乱した観念の合成から、よりよく言えば、種々のこうした観念に対し、承認することなしに同時に注意することから生じるということである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、52~53ページ参照。)

上記の引用箇所の最初の部分で述べられている、最も単純な観念は明瞭かつ判明でしかあり得ないので真なる観念とみなすことができるというスピノザの主張は、一見すると、何を言っているのか分かりにくいところがあるが、

こうしたスピノザの主張は、デカルトの方法的懐疑における思考の流れとの対比において捉えていくと少し分かりやすくなるかもしれない。

デカルトの方法的懐疑の議論においては、あらゆるものを疑い尽くしたうえで、それでもなお残ることになるまったく疑い得ない最も明瞭かつ判明な観念として自己意識の存在が認められることになったが、それと同様の思考の流れにおいて、

あらゆる観念をどこまでもその存在の根拠となる観念へと分解していった時に現れることになる最も単純で根源的な観念そのものは、もはやその存在を虚構することができない真なる観念とみなすことができると考えられる。

そして、そういった意味では、

例えば、人間の知性における自己意識の認識のほかにも、時間と空間、精神と物質、永遠と無限、必然性と完全性といったカテゴリー的な概念のほか、数学的な円や直線の観念なども、そうしたスピノザのいう最も単純で明瞭かつ判明な真なる観念として位置づけることができると考えられるのである。

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最も単純な観念の正しい秩序に基づく合成による真なる観念の形成

そして、こうした最も単純で明瞭かつ判明な真なる観念に対して、

虚構された観念というものは、具体的には、それ自体として単純でも明瞭でもあり得ず、むしろ、様々な混乱した観念の合成によって生み出されていくことになるとスピノザは指摘している。

例えば、人間という観念とライオンという観念は、どちらもそれ自体においては虚構や誤謬を含まない真なる観念とみなすことができるが、こうした二つの観念を合成して生み出されたスフィンクスの観念は、実際には存在しない虚構された観念ということになる。

しかし、その一方で、

スピノザは、こうしたそれ自体としては単純ではなく人間の知性がすぐに明瞭かつ判明なる認識へと至ることがない合成された観念のすべてが虚構された観念にあたると言っているわけではなく、上記の引用箇所において指摘されているように、

多数の要素から合成された観念であっても、それが人間の知性の働きによって最も単純な部分へと分解されてその部分のそれぞれが明瞭かつ判明な単純な観念へと還元していくことができるならば、そうした観念もまた虚構されていない真なる観念として認めることができると考えられる。

つまり、

それ自身としては明瞭でも判明でもなく、最も単純な観念としての性質を満たしていない観念であっても、

論理的に分析していくことによって、その観念が最も単純な真なる観念から合成された観念であるということを論証していくことができるとするならば、そうした観念もまた真なる観念として認めることができるということである。

そして、以上のように、

こうしたスピノザの『知性改善論』における真なる観念と虚構された観念との区別をめぐる議論においては、最終的に、

真なる観念とは、それ以上はいかなる部分へも分解していくことができない最も単純で明瞭かつ判明な観念、または、そうした最も単純な真なる観念が正しい秩序に基づいて合成された観念のことを意味するのに対して、

虚構された観念とは、最も単純な観念へと還元することができない多数の要素から合成された混乱した部分的な認識によって成り立っている観念としてそれぞれ定義されることになると考えられるのである。

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