スピノザの『知性改善論』における「虚偽の観念について」と題された章においては、前の章において考察されてきた虚構された観念と真なる観念との区別の議論に続いて、今度は虚偽の観念と真なる観念との区別についても議論が展開されていくことになる。
そして、こうした虚偽の観念と真なる観念との区別をめぐるスピノザの哲学的な議論においては、哲学的探求において求められるべき真の観念の存在が具体的にどのような性質をもったものであるのかがより明確な形で読者に対して示されていくことになる。
スピノザの『知性改善論』における「虚偽の観念」の定義
スピノザの『知性改善論』の「虚偽の観念について」の章においては、まずは、この章の冒頭部分において、
こうした虚偽の観念と呼ばれる観念が、前章において考察してきた虚構された観念と具体的にどのような点において異なった性質を持った観念であると考えられるのかということについて以下のような形で語られていくことになる。
「虚構された観念と虚偽の観念との間の差はただ、虚偽の観念は承認を含んでいるということ、言い換えれば、表象像が心に浮かぶ時に、その原因が意識されていないので、この表象像が自分の外にある事物から生じているのではないことを虚構のようには判断し得ないということ、
したがってそれは、目を開いてすなわち覚醒していながら夢を見ているのとほとんど異なるところがないということだけなのである。」
(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、55ページ参照。)
そして、こうした『知性改善論』における「虚偽の観念についての」の章の冒頭部分において語られている虚偽の観念の定義は、
以前に書いた「スピノザにおける誤謬と妄想の定義」において詳しく考察した『知性改善論』の「虚構された観念について」の章の注釈部分において記されている誤謬の定義とほぼ一致することになる。
(該当する箇所においてスピノザは、「誤謬はしかし、すぐに明らかになるように、目覚めていながら夢を見ているのである。」(『知性改善論』53~54ページ。)と述べている。)
つまり、こうした『知性改善論』における一連の記述に基づくと、スピノザは、真なる観念としての条件を満たさない虚構された観念のことを人間の知性が誤って真なる観念として認めてしまっている状態、
より一般的な言い方としては、誤謬あるいは間違った認識と呼ばれる観念や認識のあり方のことを指してこうした虚偽の観念という言葉を用いていると考えられるのである。
スピノザが挙げる「虚偽の観念」の様々な例と「虚構された観念」との関係
そしてさらにスピノザは、こうした「虚偽の観念」と呼ばれる観念がより具体的にはどのようなものであるのかということについて、さらに以下のような様々な観念の事例を挙げていくことを通じて説明を試みていくことになる。
「本質に関係するあるいは本質と同時に行為に関係する他の種類の虚偽の観念について言えば、こうした知覚は、自然の中に存在する諸物についての種々の混乱した知覚から合成された必然的に常に混乱したものである。
例えば、人々が森や偶像や獣やその他のものの中に神霊が住んでいるとか、単にそれを合成しただけで知性の生じる物体があるとか、死者が推論し、散歩し、談話するとか、神が欺かれるとか、このほかこうした事柄を信じる時のごときである。」
(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、56ページ参照。)
基本的には、こうした虚偽の観念と哲学的探求において求められるべき真なる観念との区別についての議論は、前回までに取り上げてきた虚構された観念と真なる観念の区別をめぐる議論を踏襲していく形でほぼ同じような議論が展開されていくことになる。
「虚構された観念について」の章の結論部分においてスピノザは、虚構された観念のことを最も単純な観念にあたる真なる観念へと還元することができない多数の要素から合成された混乱した観念として定義しているが、
「虚偽の観念について」と題されているこの章においても、それと同様に、虚偽の観念は、多数の混乱した認識から合成された必然的に混乱した観念として定義されている。
そして、こうした「虚構された観念」と「虚偽の観念」における唯一の性質の違いは、前者の虚構された観念においては、人間の知性はいまだその観念の真偽についての判断を保留している言わば仮定のような状態にあるのに対して、
後者の虚偽の観念においては、人間の知性はそうした真なる観念に基づかない認識を真なる観念として承認するという誤った認識を持っているという点に求められることになると考えられるのである。
アニミズム思想や唯物論的な還元主義に対するスピノザの否定的な見解
そして、上記の『知性改善論』からの引用箇所において、スピノザが示している虚偽の観念の例として挙げられている様々な事例からは、
スピノザが具体的にどのような哲学的あるいは宗教的な理論に対して否定的あるいは敵対的といってもいい考えを持っていたかが示唆されるという点においても興味深いところがあるように思う。
例えば、ここでスピノザが虚偽の観念の筆頭に挙げている「森や偶像や獣の中に神霊が住んでいる」という思想は、自然崇拝や偶像崇拝にも通じるアニミズムの思想のことを指していると考えられる。
スピノザの神即自然といった言葉に象徴される汎神論的な世界観は、しばしばこうした世界におけるあらゆる事物や存在の内に神や霊魂といった何らかの精神的な存在が宿っているというアニミズムの思想と混同されることが多いが、
スピノザ自身がそうした考え方を自らの著作において明確に虚偽の観念として位置づけて退けているのは少し興味深いところがあるように思う。
また、それに対して、そうした虚偽の観念の最後の例に挙げられている「神が欺かれる」という観念は、欺く神の議論として知られているデカルトの『省察』における神の存在証明の議論を念頭に置いて語られていると考えられるが、
こうした点からも、哲学者としてのスピノザがデカルトの哲学思想を土台としたうえで、自らの哲学思想の体系を築き上げていったことをうかがい知ることができる。
ちなみに、
スピノザが虚偽の観念の二番目の例として挙げている「単にそれを合成しただけで知性の生じる物体」という観念は、具体的にどのようなもののことを意味しているのかはいまひとつ分かりにくいのだが、
以前にも「スピノザの認識論哲学に基づく人間とAIを区別する唯一の哲学的な条件」において少し別な観点から考察したように、
無限の実体である神の内に含まれている並列的な関係にある有限の実体である物質と精神の存在をその限りにおいて厳格に区別しているスピノザは、
単なる物質的な存在の組み合わせによって、意識や知性と呼ばれるような何らかの精神的な存在が生み出されるという唯物論的な考え方に対しては明確に否定的な考えを持っていたと考えられる。
そして、こうしたことからは、スピノザは、現代におけるコンピューターやAIといった高度な演算機能や分析能力を持つ機械やシステムの存在についても、
そうしたコンピューターやAIと呼ばれるような物理的な存在が人間と同様の意識や思考あるいは知性と呼ばれるような何らかの精神的な属性を持つことは原理的に不可能であると考えたであろうということが示唆されることになり、
それと同様に、人間の意識や心といった精神的存在の根拠を脳という物質的存在に求める心脳同一説などの唯物論的な還元主義に対して明確に否定的な考えを持っていたことも示唆されることになるのである。
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