神即自然といった言葉に象徴されるスピノザの哲学は、しばしば、神という超越者の存在を自然という現実の世界の内へと貶める無神論や唯物論にも通じる思想と誤解されることによって、スピノザは同時代の神学者や哲学者たちからも無神論者として非難されることになった。

しかしその一方で、スピノザの『知性改善論』における「虚偽の観念について」と題された章における真なる観念と虚偽の観念の区別をめぐる議論の結論部分においては、

こうしたスピノザが語る「自然」と呼ばれる存在が、根源的な意味においてはどのような観念を念頭において語られているかが明らかにされている記述を見いだしていくことができる。

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スピノザが主張する自然の秩序と自然の根源に基づく学問の探求

『知性改善論』の「虚偽の観念について」と題される章の結論部分において、スピノザは、人間の知性が現実の世界における様々な事物の認識において、虚偽の観念と真なる観念を誤って混同してしまう原因について、

それは究極的には以下のような知性における認識の進め方の誤りのうちに求められることになると主張している。

「最後にそれはまた、人々がすべての自然の第一の要素を理解しないことからも生じる。すなわち、そのために彼らは秩序を踏まえずに思惟を進めて、自然を真ではあるが抽象的な公理と混同する結果、自分自身が混乱してしまい、自然の秩序を転倒するようになるのである

しかし、もしできるだけ抽象的な進み方を避けて、できるだけ早く自然の第一の要素から、言い換えれば、自然の源泉と根源とから出発すれば、我々は決してこのような錯誤に陥る恐れはないであろう。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、62ページ参照。)

ここでスピノザは、人間の頭の中にある抽象的な公理を自然の側に無理やりあてはめて考えを進めていこうとすると虚偽の観念や誤った認識へと進んで行ってしまうことがあるので、

自然における事物を正しく理解するためには、そうした人間の知性の内だけで組み上げられた理論を一方的に自然の側へとあてはめていくような倒錯した抽象的な認識の進め方をやめたうえで、自然の秩序に基づいて認識を進めていくべきだと主張していると考えられる。

そして、こうした自然における秩序を重視したうえで、そうした自然の源泉や根源となる存在から事物の認識を進めていくべきと主張するスピノザの考え方は、

一見すると、人間の知性における抽象的な思考ではなく、自然の秩序に基づく実験や観察に基づいた実践的な探求のみを重視する経験主義的な思想、さらに言えば、唯物論的ですらある学問の探求の進め方を意味しているようにも解釈することができると考えられる。

しかし、ここでスピノザが語っているあらゆる学問、そして、すべての真なる観念の源泉となる「自然の根源」と呼ばれるものの存在は、

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様々な動物や植物たちが生活を営んでいる自然界や自然環境、あるいは、そうした自然の事物が位置づけられている物理的な世界といった一般的な意味における自然の概念とは大きく異なる存在のことを意味しているということが『知性改善論』におけるすぐ後の記述において明らかにされていくことになる。

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スピノザにおける「一切の有」「唯一の無限」としての「自然」の定義

事物の認識において、虚偽の観念へと陥ることを避けて、真なる観念のみを見いだしていくために必要なあらゆる認識の根拠となる「自然の根源」と呼ばれるものが具体的にどのような概念のことを意味しているのかということについて、

スピノザは『知性改善論』の「虚偽の観念について」と題される章を締めくくる最後の段落において以下のように語っている。

「しかし、自然の根源は、後で見るように、抽象的にあるいは普遍的には概念されることができないし、また、実際に存在しているよりも大きく知性の中で拡大されることもできないし、また、変化する諸事物とは何らの類似性も持たないのであるから、我々が真理の規範を有する限りは、その観念に関して決して混乱に陥る恐れはない。このものこそが確かに唯一の無限である。

言い換えれば、それは一切の有であり、それを外にしてはいかなる有も存在しないのである。」

つまり、ここでスピノザが語っている「自然の源泉」そして「自然そのもの」ともいえる存在は、動物や植物たちが暮らす自然界のことを意味しているわけでもなければ、人間を含めたあらゆる事物が存在する有限的な物理的な世界だけのことを意味しているわけですらなく、

そうしたスピノザにおける「自然」とは、「唯一の無限」そして「一切の有」のことを意味していると考えられるのである。

上記の『知性改善論』からの引用箇所において記されている「一切の有」という部分は、ラテン語の原文においては、omne esse(オムネ・エッセ)と記されていて、それはすなわち、一切の有としてのすべての存在のことを意味することになる。

そして、そうした一切の有としの自然の存在のうちには、それが大きさや形を持つ有限なるものとしてではなく無限なるものとして語られている以上、そこには当然、物質だけではなく精神の存在も含まれることになり、

それが存在する唯一の無限として語られている以上、そうした唯一にして無限なる存在とは、デカルトにおける神の概念とも一致することになる。

つまり、そういった意味では、スピノザは、

こうした物質と精神を含むすべての存在の根源にしてそれらのすべてを包含する唯一にして無限なる存在である神ともいうべき存在のことを「自然」という概念によって表現していると考えられるのである。

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