前回までに考察してきたように、スピノザの『知性改善論』の「方法の第一部」においては、人間の知性が永遠なる真理へと至るために必要な「真なる観念」がどのような性質を持った観念であるのかを正しく定義するために、

真なる観念とは区別されることになる「虚構された観念」や「虚偽の観念」といった様々な種類の観念についての詳細な分析が行われていくことになる。

そして、今回取り上げる「方法の第一部」の三番目の章における「疑わしい観念」についての分析と吟味を終えることによって、スピノザにおけるこうした四つの観念の種類についての明確な区別と定義が明らかにされることになる。

スポンサーリンク

二つの観念の対立状態としての「疑わしい観念」の定義

『知性改善論』の「方法の第一部」における「疑わしい観念について」と題された章においてスピノザは、具体的には以下のような形でこうした「疑わしい観念」と呼ばれる観念がどのような性質を持った観念であるのかを定義している。

「どんな疑惑も、疑惑される物そのものだけによっては精神の中に生じない。言い換えれば、もし精神の中に一つの観念しかないなら、それが真であるか偽であるかを問わず、何らの疑念もなければ確実性もないであろう。

そこにはただ一種の感覚があるだけである。なぜなら観念は、それ自体では一種の感覚にほかならないのであるから。

疑惑はむしろ、疑惑される物についてある確かな事柄を結論できるほど明瞭かつ判明でないところの他の観念によって生じるであろう。すなわち、我々を疑惑の中に投じる観念が明瞭かつ判明でないのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、64ページ参照。)

ここでスピノザは、疑わしい観念、そして、そうした観念の内に存在する疑惑そのものは、二つの異なる観念の存在を前提とすることによってはじめて成り立つということを主張している。

人間の精神の内にただ一つの観念だけが存在していて、その観念に対立する何らかの別の観念が考えられたことすらない場合には、

そこには、何の疑惑も存在しない代わりに、その観念が真実であることを保証する何の確実性も存在しないとも考えられることになる。

つまり、そういった意味では、上記のスピノザの言葉においては、

「疑わしい観念」と同時に「真なる観念」もまた、人間の知性においては、互いに対立する様々な観念についての詳細な分析と吟味を行っていくことを通じて形成されていくことになるということが示唆されていると考えられるのである。

スポンサーリンク

常識に対する疑惑と虚構を通じて到達する真なる観念への道

そしてスピノザは、こうした「疑わしい観念」と呼ばれる観念がより具体的にはどのようなものであると考えられるのかということについて、さらに続けて以下のような認識の例を挙げていく形で詳しく吟味していくことになる。

「例えば、経験なり何なりから感覚の欺瞞について思惟したことがない人は、太陽がその見え方より大きいか小さいかを決して疑わないであろう。だから農夫たちは太陽が地球よりもはるかに大きいと聞くとしばしば不思議な思いをする。

しかし感覚の欺瞞について思惟することにより疑惑が生まれる。そしてもし、疑惑の後に、感覚についての真なる認識を得て、事物は遠く離れれば感覚の媒介によってどんな現れ方をするかを知る時、再び疑惑が除去されるのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、64~65ページ参照。)

上記の引用箇所においては、人間の知性が自らの経験や周りの人々から教えられた知識を鵜のみにして当たり前の認識として受容している状態から、

そうした自らの内にある当たり前の認識や常識と呼ばれるものの存在をそれとは別の観念を対立させることによって疑い、

スポンサーリンク

そうした疑わしい観念の同士の対立と吟味を通じて生み出されていくことになる新たな仮説から真なる観念へと到達していくまでの人間の知性における認識の道のりのあり方が示されていると考えられる。

例えば、

人間の知性は、まずは自らの日々の経験を通じて、当たり前のように毎日、東から昇っては西へと沈んでいく太陽の姿を目にすることによって、太陽が地球の周りを回っているという天動説に近い考えを常識として自らの内に抱くことになる。

しかしその後、天体観測によって得られた詳細な観測データという新たな観念と今までの自らの認識の内にあった天動説という観念が互いに対立し矛盾することに気づいた人間の知性は、そうした自らの常識となる観念に疑惑の目を向けることによって、ここに「疑わしい観念」が生まれることになる。

そしてその後、天動説に代わる様々な新しい仮説を「虚構された観念」として生み出していった人間の知性は、最終的に、地動説の観念が「真なる観念」であることを突き止めることによって、それまでの疑惑は解消され、地動説に対立する天動説の観念は「虚偽の観念」として位置づけられることになる。

つまり、人間の知性は、このような思考の精錬の過程を経ることによって、哲学的探求において求められるべき真なる観念へと到達していくことになると考えられるのである。

スポンサーリンク

「疑わしい観念」と「虚偽の観念」と「虚構された観念」と「真なる観念」という四つの観念の形式の『知性改善論』における定義

そして、こうしたことをすべて踏まえたうえで、

スピノザの『知性改善論』の「方法の第一部」においてこれまでに考察してきた「真なる観念」と「虚構された観念」そして「虚偽の観念」と「疑わしい観念」という四つの観念の具体的な定義と区別のあり方についてまとめると、それは以下のような思考の道筋のうえに位置づけられることになると考えられる。

まず、人間の知性のうちに一つ一つの観念がいかなる吟味も分析も比較もなされていない孤立した状態のままで存在している時には、それらの観念は、真であるとも偽であるとも、または、疑わしいとも虚構されたものであるとも判定されることはない。

そして、そうした様々な観念のうちから対立する観念同士の衝突を経て「疑わしい観念」が生み出されることになり、そうした観念同士の分析と吟味を経て、しばしば新たな「虚構された観念」が生み出されていったのち、

最終的にすべての観念は、「虚偽の観念」と「真なる観念」というただ二種類のみの観念の形式へと必然的に行き着くことになると考えられる。

つまり、

「疑わしい観念」とは、ある観念に対してそれとは対立する別の観念が現れることによって自らの認識の内にもともと存在した観念に疑惑が投げかけられることになるという二つの観念の対立状態のことを意味するのに対して、

「虚構された観念」とは、そうした複数の観念の疑惑と混乱のなかで新たに形成されていくことになる観念がいまだその真偽についての判定は保留された仮定の状態にあることを意味していて、

「虚偽の観念」は、そうした疑わしい観念や虚構された観念についての分析と吟味の末に、その観念を承認することが誤りであることが明らかとなった観念、

「真なる観念」は、そうした疑わしい観念や虚構された観念についての分析と吟味の末に、その観念が正しい秩序に基づいて見いだされた明瞭かつ判明な観念であることが明らかなった真の意味において承認されるべき観念であるという点に、

こうした四つの種類の観念の形式における具体的な定義の違いがあると考えられることになるのである。

・・・

「哲学」のカテゴリーへ

スポンサーリンク