スピノザの『知性改善論』の「方法の第一部」においては、人間の知性は、自らの内に見いだしていくことができる明瞭かつ判明な観念、そして、スピノザ哲学においては、物質と精神を含むすべての存在を包含する唯一にして無限なる存在のことを意味する「自然」における正しい秩序に基づいて哲学的探求を進めていくことによって、

「疑わしい観念」や「虚偽の観念」あるいは「虚構された観念」といったその他の種類の観念を排除していった末に、永遠なる真理へとつながる「真なる観念」へと到達することができるということが語られている。

そして、こうした真なる観念へと到達するための認識論的な方法が記されている「方法の第一部」の最後の章においては、「欺く神」の議論として知られるデカルトの『省察』における神学的な議論を念頭に置いた神の存在証明へと通じるスピノザの独特の幾何学的な思考の道筋を見いだしていくことができる。

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デカルトの『省察』における「欺く神」に端を発する神の存在証明の議論

まず、こうしたスピノザの『知性改善論』の哲学的な議論においてもたびたび登場する「欺く神」という概念は、デカルトの『省察』のなかの正確には、「第三省察」における神の存在証明をめぐる議論のなかで語られている概念であり、

デカルトは自らの主著の一つである『省察』の「神について、神は存在するということ」と題される「第三省察」の冒頭部分において、具体的には以下のような形でそうした「欺く神」あるいは「欺瞞者としての神」についての議論を提起している。

「機会が見つかればすぐにでも私は、神が存在するかどうかを、そして、存在するとするならば、神が欺瞞者であるかどうかを吟味しなくてはならない。

というのは、このことを知らなければ、私には、他のいかなるものについても全面的に私が確知することができるとは到底思われないからである。」

(デカルト『省察』三宅徳嘉・小池健男・所雄章訳、白水社、144ページ参照。)

人間を含む世界におけるすべての存在の根源にある絶対的で永遠なる真理としての神と呼ばれるような存在が実際にはどこにも存在しないとしたら、それは、この世界には、そもそもあらゆる存在の基盤となる確固たる真理そのものがとこにも存在しないということになるので、哲学的探求において見いだしていくべき永遠なる真理というものも、もとからどこにも存在しないということになる。

そして、たとえそうした根源的で絶対的な神と呼ばれるような存在が実際に存在したとしても、そうした絶対者としての神が人間の知性が正しい認識へと至るのを妨げるようとする悪しき存在や欺瞞者のような存在であったとしたら、そうした欺く神の前で人間の知性は無力となり、真理への到達を目指す哲学的な探求は常にその道半ばで妨げられ続けることになり、そうした探求のすべてが徒労に終わることになる。

つまり、ここでデカルトは、人間の知性が確実な知識や真なる観念というものを手にすることが果たして可能かを知るためには、まずは、そうした人間を含む世界におけるあらゆる存在の根源にある神と呼ばれる絶対的な存在が果たして本当に存在するのかどうか、

そして、そうした神と呼ばれる絶対者が実際に存在するとしても、そうした絶大な力を持つ根源的な存在が人間の知性が正しい認識へと至るのを妨げるような悪しき存在や欺瞞者でないことを確証することが必要であるということを語っていると考えられるということである。

そして、こうした本家のデカルトの『省察』における欺く神の議論に端を発する神の存在証明の議論においては、無限と永遠、自己原因、完全性といった三つの概念をめぐる哲学的な議論と論証を通じて、そうした欺瞞者としての邪悪な性質を持つ欺く神の存在が否定されたうえで、

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そうした無限と永遠自己原因完全性という三つの性質をあわせ持つ誠実で真なる存在としての神の存在証明が行われていくことになるのである。

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『知性改善論』における「欺く神」の議論から『エチカ』へと通じる幾何学的な思考の道筋

そして、それに対して、

スピノザの『知性改善論』においては、まずは、虚偽の観念の定義をめぐるスピノザの哲学的な議論が展開されていくことになる『知性改善論』の「方法の第一部」の第二章あたる「虚偽の観念について」と題された章において、

「神が欺かれる」という観念の吟味を通じて、デカルトの「欺く神」の議論を連想させるような議論が展開されていくことになるのだが、

その次の章にあたる「疑わしい観念について」と題された章においては、より明確な形で、こうしたデカルトの『省察』における「欺く神」の議論を念頭においたスピノザ流の以下のような哲学的議論が展開されていくことになる。

「ここからして次のこと、すなわち、十分確実な事柄においてさえ我々を欺瞞するある欺く神が存在しているかもしれないという理由で真なる観念を疑い得るのは、我々が神について何ら明瞭かつ判明な観念を持たない限りにおいてのみであるということが生じる。

言い換えれば、もし我々が一切の事物の根源に関して有する認識に注意してみて、神は欺くものではないことを、我々が三角形の本性に注意する時その三つの角の和が二直角に等しいことを見いだすのと同様の明瞭さで我々に告げる何ものをも見いださないとするならばこうした疑いは存続するが、

しかしもし我々が、三角形に持つような認識を神について持つなら、すべてのこうした疑いは除去されるのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、65ページ参照。)

ここでスピノザは、人間の知性は「一切の事物の根源についての認識」、すなわち、すべての存在を包含する唯一にして無限なる存在としての「自然」における正しい秩序に基づいて哲学的探求を進めていくことによって、

疑わしい観念を退けていって真なる観念のみを見いだしていくことができるという人間の知性における「疑わしい観念」と「真なる観念」の区別についての議論を展開していくなかで、

そうした正しい秩序に基づいて得られる真なる観念の代表的な例として「三角形の本性」という幾何学的な観念の例を挙げることを通じて、デカルトの『省察』において提起されている欺く神の観念そ否定する論証を行っていると考えられる。

つまりここで、スピノザは、三つの角の和が二直角に等しいという三角形の本性、すなわち、三角形の内角の和が180であるという幾何学的な定理との類比関係において欺く神の否定としての誠実なる神の存在証明を行っていると考えられるのである。

そして、そういった意味では、

こうしたスピノザの『知性改善論』における幾何学的な定理を通じた欺く神の否定をめぐる哲学的議論のあり方からは、

スピノザが自らの主著である『エチカ』において展開していくことになる幾何学の形式に基づく神の存在の定義とその演繹的な論証の体系的な議論へと通じていくスピノザ独特の哲学的な思考の道筋を読み解いていくことができると考えられるのである。

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