前回までに書いてきたように、スピノザの『知性改善論』の「方法の第一部」においては「真なる観念」の定義とその他の種類の観念との区別をめぐる議論の中で、欺く神の否定や、一切の有としての自然の定義、夢と現実の区別といったさまざまな哲学的な論題についての考察が進められているが、

こうした「方法の第一部」を締めくくる結論部分にあたる最後の章においてスピノザは、人間の脳や心における記憶と忘却の働きをめぐる一連の興味深い議論を提起している。

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『知性改善論』における記憶の定義と知性の働きとの関係

『知性改善論』の「方法の第一部」の最後の章にあたる「記憶と忘却について:結論」と題された章において、スピノザは、人間の脳や心における記憶と忘却の働きについて、それは具体的に以下のような性質をもった働きであると述べている。

「知性とそのもろもろの力の認識に役立ち得るものはすべてこれをもらさないために、私はさらに記憶と忘却について少し説きたい。

この際、特に注意すべきことは、記憶は知性の助けによっても強まり、また、知性の助けがなくても強まるということである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、66ページ参照。)

ここでスピノザは、人間の脳や心における記憶の働きを、精神における知性の働きと明確に区別したうえで、そうした記憶の働きは知性の助けによって強化することができるとは述べている一方で、

そうした知性の存在を前提としなくも脳や心における記憶の働きそのものはそれ自体として十分に成立していて、そうした記憶の働きは知性の働きを介さなくても勝手に強化されることもあると述べている。

つまり、上記の引用箇所においてスピノザは、基本的には、そうした脳や心における記憶の働きを人間の精神における知性の働きとは別個の独立した存在として定義したうえで、それでもそうした知性の働きを介することによって人間はより効率的に物事を記憶していくことができると指摘していると考えられるのである。

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ストーリー記憶とスピノザ哲学における知性の働きに基づく記憶法

そして、上記の引用箇所に続いてスピノザは、そうした人間の脳や心における記憶の働きが精神における知性の働きによって強化されるケースについて、具体的に以下のような例を挙げていく形で説明していくことになる。

「すなわちはじめの点に関して言えば、物は理解できるものであればあるだけ容易に頭に残り、これに反してそうでなければないだけ容易に我々はこれを忘れる。

例えば、私が人にたくさんの互いに関連のない言葉を伝える場合、その人は、私が同じ言葉を物語の形式で伝える場合より、はるかに記憶しがたいであろう。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、66~67ページ参照。)

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ここでスピノザは、知性の働きが記憶の働きを強化する場合について、互いに明確な結びつきのない複数の言葉を記憶するケースを例として挙げたうえで、

そうしたケースでは、それぞれの言葉をただ機械的に暗唱することによって丸暗記しようとするよりは、むしろ、

本来は互いに何の関連もない複数の言葉を物語の形式にあてはめていくことによって、新たな関連性をもった秩序立った言葉として覚えていく方がはるかに記憶しやすいということを指摘していると考えられる。

例えば、八百屋さんに買い物に行く際に、ニンジントマトトウモロコシカリフラワーニラアスパラガス白菜レンコンキュウリピーマンという買う予定になっている10個の野菜を覚えることにした場合、

そのままそうした10個の野菜のリストを丸暗記しようとするよりも、即興で以下のような簡単な物語をつくってしまう方が覚えやすいかもしれない。

細長いニンジンが膨らんでトマトになり、弾けたら中からトウモロコシが雨のように降ってきたので、白いカリフラワーを傘の代わりに開いたら、地面に落ちた粒から緑色のニラが草のように生えてきて、そのまま先が尖ってアスパラガスになり、その先端に白菜が落ちてきて刺さったので穴だらけになってレンコンになり、穴の中から今度は表面にイボ状の突起のある細長いキュウリが生えてきてそのまま膨らんでピーマンになった。

このように、多少、強引でもいいので、上記のような物語の形式にあてはめて、本来は互いに無関係な言葉でも秩序立てて覚えていくと物語の全体が記憶に残ることによって忘れにくくなると考えられる。

また、自分の心の中に精神の宮殿のようなものをつくって、そうした自分にとって思い入れのある場所のイメージと覚えたい言葉とを結びつけて記憶していくといった記憶法も、こうしたスピノザの指摘する知性の働きによって強化される記憶パターンの中に含まれることになると考えられる。

以上のようにスピノザは、

脳や心の働きによって形成されることになる記憶に対して、人間の精神における知性の働き正しい秩序を与えることによって、そうした記憶がより強化され忘れにくくなるということを指摘していると考えられる。

そして、こうしたスピノザの『知性改善論』における記憶と知性との関係性をめぐる一連の議論においては、

現代の脳科学認知科学の分野におけるエピソード記憶ストーリー記憶と呼ばれているような記憶のメカニズムやある種の記憶術へと通じるような考え方が提示されていると考えられるのである。

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