前回書いたように、スピノザの『知性改善論』の「方法の第一部」における「記憶と忘却について」と題された章においては、人間の脳における記憶の働きと精神における知性の働きの区別が示されていくなかで、

現代の脳科学や科学哲学などの分野における心脳同一説の否定へとつながる哲学的な議論が提示されていると考えられる。

そしてスピノザは、こうした人間の認識における記憶や想起といった働きの本質を物質的な存在である脳の働きに基づく表象力によって形成される受動的なイメージとして定義したうえで、

さらに、そうした表象力と呼ばれる概念と、人間の精神における知性の働きを明確に区別していくことを通じて、学問の探求における哲学と生物学の領分を画定したうえで、時代を超越して進む哲学的探求の営みのあり方をも提示していくことになる。

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スピノザの『知性改善論』における表象力と知性の明確な区別

『知性改善論』の「記憶と忘却について」と題された章の後半部分においてスピノザは、記憶や忘却といった働きの根源にある表象力と呼ばれる作用がどのようなものであるのかということについて、以下のような少し難解な表現によってさらなる説明を試みている。

「以上我々は、真なる観念と他の諸知覚とを区別し、かつ、虚構された観念、虚偽の観念、その他は表象力に起因することを、

言い換えればそれらの観念は、身体があるいは夢を見ながらあるいは目覚めていながら種々の刺激を受けるにつれて、精神の能力自身からではなく外的原因から生じるところの、偶然にして互いに関連のない諸感覚に起因することを示した。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、69ページ参照。)

ここでスピノザは、この著作全体における主題ともなっている哲学的探求の目標となる真なる観念と、虚構された観念や虚偽の観念といったその他の観念との区別について改めて言及したうえで、

そうした哲学的探求の主題となる真なる観念とは異なるその他の不確かな観念のすべてには常に表象力が関わっていると指摘している。

そしてそのうえでスピノザは、記憶や忘却といった人間の認識における働きや不確かな観念の根源にある表象力と呼ばれる作用の本質は、脳を含む身体に与えられる種々の刺激によって生じる偶然的な感覚のうちに求められると主張している。

つまり、ここでスピノザが語っている表象力とは、脳や身体において生じる偶然的で不確かな感覚に基づいて受動的なイメージを形成していくある種の感覚作用のことを意味していると考えられ、

そうした偶然的で不確かな感覚に基づく表象力によって形づくられていくことになるイメージや観念もまた、必然的に、虚構された観念や虚偽の観念といった哲学的な意味における不確かな観念となってしまうということが語られていると考えられる。

そして、真なる観念の探求、すなわち、自らの精神における知性の働きによって、物質と精神を含むすべての存在の根源にある永遠なる真理へと到達することを目指す哲学的探求においては、

そうした偶然的で不確かな感覚に基づく表象力によって形成される不確かな観念をすべて排除したうえで、精神における純粋なる知性の働きによって見いだされ形づくられていくことになる真なる観念のみに基づいて探求が進められるべきであるということが語られていると考えられるのである。

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哲学と生物学における学問分野の領分を画定する哲学的な議論

そしてさらにスピノザは、そうした脳や身体における受動的な感覚作用を根拠とする表象力と呼ばれる認識の働きをめぐる議論において、ここから少し突き放したような感もあるかなり大胆な議論を展開していくことになる。

「ここに表象力とは、ただそれが知性と異なるあるものであり、それによって精神が受動の関係に置かれるものでありさえすれば、人々が望むままに解して差しつかえない。

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実際我々は、表象力が漠然としたあるものであり、精神を受動的たらしめるものであることを知る限り、そして同時に、どのようにして知性の助けによって我々がこれから逃れられるかを知る限り、それをどう解しようと差異がないからである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、69ページ参照。)

つまりここでスピノザは、表象力とは脳や身体との関わりがある種の受動的な感覚作用であり、それが人間の精神における知性の働きに基づく真なる観念の探求という哲学的探求の営みとはおよそ関係のない認識の働きであることがすでに分かった以上、

こうした脳の働きに基づく表象力と呼ばれる認識作用についての理解は、それが精神や知性そのものとは異なる「あるもの」であるという理解だけで十分であり、それ以上そうした脳や身体における神経学的あるいは生物学的な仕組みについての探求に哲学が立ち入る必要はないということを主張していると考えられる。

実際、21世紀という現代の時代を生きている我々は、スピノザが生きていた17世紀の時代のヨーロッパ人たちよりも、スピノザが語る脳の働きに基づく表象力としての「漠然としたあるもの」について、

それが主に大脳新皮質と呼ばれる脳の部分の機能に基づいて形成されていて、そのうち記憶や忘却といった認識作用については大脳辺縁系の一部である海馬と呼ばれる器官が深く関わっているといったもろもろのことについての詳細な知識を持っている。

しかし、ここで重要なのは、

そうした脳科学や生物学などの分野における科学的な知識とは関係なく、人間の精神は真なる観念、すなわち、すべての存在の根源にある永遠なる真理へと到達する哲学的探求を進めていくことができるということをスピノザは主張しているということにあると考えられるのである。

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すべての時代を超越して進む永遠なる真理を求める哲学的探求の営み

そしてスピノザは、こうした表象力や身体といった存在と人間の精神における真なる観念を求める哲学的探求とを区別していく議論へとつながる考え方について、さらに以下のような言葉を続けていくことによって、繰り返し語っている。

「だから、私がここにまだ身体の存在やその他の必要なもろもろのことを証明していないのに表象力や身体やその性質について語っているのを、何びとも怪しまないであろう。

今言ったように、表象力が漠然たるあるものであるといった一連のことを知る限り、それをどのように解しても差異がないのだから。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、69ページ参照。)

そして、こうしたスピノザの『知性改善論』における表象力や身体の存在と人間の精神における知性の働きとを明確な区別していく哲学的な議論においては、

自らの精神における純粋なる知性の働きによって永遠なる真理を求める哲学的探求と、脳や身体についての研究を行う神経学や生物学の分野に属する学問探求のあり方を明確に区別していくことによって、

哲学の側から、そうした哲学と生物学あるいは神経学や脳科学といったそれぞれの学問分野の領分を画定していくという考え方が示されていると考えられる。

そして、そういった意味では、こうした純粋なる知性の働きによって真理の探求が行われていくことになる哲学という学問分野における普遍的な観点においては、

古代から近代そして現在から未来へと至るどの時代に生きる人間においても、時代の進展と共に移り変わり進んで行くことになる神経学や生物学の分野における科学的な知見の影響を受けることによってすぐに価値観が覆されてしまうことがなく、

すべての時代に生きている人々が互いに同等な立場から、自らの精神における知性の働きのみによって、すべての存在の根源にある永遠なる真理を求める哲学的探求を成し遂げていくことができると考えられるのである。

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