前回までに書いてきたように、スピノザの『知性改善論』の「記憶と忘却について」と題された章においてスピノザは、記憶や忘却といった認識の働きの根源にある表象力と人間の精神における知性の働きを明確に区別していくことを通じて、

現代における科学哲学や脳科学における心脳同一説の否定へとつながる哲学的な議論を提示したうえで、さらに、そうした脳科学や神経学あるいは生物学といった学問分野の領域と哲学における学問分野の領域を区別して互いの領分を画定する議論を展開していると考えられる。

そしてその後、こうした『知性改善論』におけるスピノザの考察は、表象力と知性の働きの区別からさらに派生して、言葉と観念の違いについての考察へと進んでいくことになる。

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スピノザの『知性改善論』における「言葉」と「表象」の関係

『知性改善論』の「記憶と忘却について」と題された章の結論部分においてスピノザは、まずは以下のような形で、「言葉」と「表象」という二つの概念の関係性について考察していくことになる。

「また言葉は表象の一部を成すから、言い換えれば、言葉が身体の状態により漠然と記憶の中で合成されるにつれて我々は多くの概念を虚構することになるから、

十二分に用心しない限り、言葉もまた表象力のように多くの大きいな誤謬の原因となり得ることは疑い得ない。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、71ページ参照。)

ここでスピノザは、「言葉」というものの存在を表象力の働きによって人間の心の内に形成されていくことになる「表象」を表示する一種の記号にあたるような存在である意味で、それを表象の一部を構成する存在として定義したうえで、

そうした「言葉」と「表象」という二つの存在は、どちらもそれ自体としては人間の精神における知性の働きによって獲得されることになる「真なる観念」とは性質が異なる存在なので哲学的な探求における大きな誤謬の原因となり得るということを指摘していると考えられる。

通常の場合、「観念」とは意識における主観的なイメージにあたる「表象」のことを意味する概念として解釈されることが多いと考えられるが、

スピノザは、哲学的探求において人間の精神における知性の働きによって獲得されることになる「真なる観念」とは、

そうした脳や身体における感覚作用を通じた表象力によって人間の心の中に形成されていくことになる単なる主観的なイメージとしての「表象」や、そうした表象を表示する一種の記号にあたる「言葉」とは明確に区別される存在であるということを語っていると考えられるのである。

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精神や知性の存在を「非物質的な存在」や「不死なるもの」として語る言語表現における価値の転倒

そしてそのうえでスピノザは、さらに以下のような形で、こうした表象を表示する一種の記号としての「言葉」というものの存在がそれ自体としては必ずしも哲学的な探求の目標となっている「真なる観念」の獲得の助けとなるとは限らない多くの欠陥を抱えた混乱した概念であるということを示していくことになる。

「そのうえ言葉は民衆の好みと把握力に応じて構成されている。したがってそれは、知性のうちにある通りのものではなく表象のうちにある通りの記号でしかない

このことは人々が、知性の内にのみあって表象の内にはないもののすべてにしばしば非物体的・無限的などなどの否定的名称を与えた事実から、

また実際においては肯定されている多くのものを創造されざる・依存せざる・限りなき・不死のように否定的に表現し、それとは逆に、否定されているものを肯定的に表現する事実から明瞭である。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、71ページ参照。)

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人間は日常生活において、あるいは、学問的な議論や思考の場面においてすら、一般的なの言語表現の場面において、精神や霊的な存在のことを指して、それを「非物質的な存在」という言葉で定義することはあっても、目の前の机の上にあるリンゴのことを指して、それを「非精神的な存在」と言うことはほとんど聞いたことがない。

目の前にあるリンゴはただの物体であり、人々が日常的に目にしているごくありふれた物質的な存在なのであって、そうした存在に対してわざわざ「非精神的な存在」といった回りくどい表現を用いる意味も必要性もどこにもないからである。

また、「不死」といった言葉についても、それは本来、「永遠に存在する」という肯定的な意味を持つ存在について語られている言葉なのだから、そうした存在に対して「不死」という否定的な表現が用いられていることには、よくよく考えてみるとどこかおかしいところがある。

もしも、こうした「言葉」という存在が、身体に由来する表象力ではなく、知性の働きに由来する存在であったとすらならば、

そうした知性に由来する存在としての「言葉」の表現において、「精神」のことを指して「非物質的な存在」といった表現を用いることや「永遠なる存在」に対して「不死」という否定的な表現が一般的に用いられることはなかっただろう。

なぜならば、そうした「知性」という存在そのものがまさに「精神」の内にある「永遠なる存在」なのであり、表象力に由来する存在としての「言葉」における一般的な表現においては「非物質的な存在」や「不死」といった本来の価値が転倒された表現によって語られているものそのものであるのだから。

こうしたことが、上記の引用箇所においてスピノザが主張している具体的な内容であると考えられる。

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言葉によって表象されやすい存在と永遠なる真理へと通じる根源的な存在との区別

そしてスピノザは、この章を締めくくる最後の文において、改めて表象力と知性との存在の区別について言及したうえで、以下のように語っている。

「すなわち我々が表象力と知力とを区別しない限り、より表象しやすいものを我々にとってより明瞭だと思い、また表象しているものを理解していると思うことになる。

この結果我々は、後にしなければならないことを先にし、こうして認識を進めていくための真の秩序が転倒され、正当な結論を出すことができなくなるのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、72ページ参照。)

ここでスピノザは、人間が哲学的探求を含むあらゆる学問的な議論や思考活動において用いている「言葉」という存在が、哲学的探求の原動力となっている知性の働きではなく、日常的な感覚に基づく表象力によって形成されていることから、

十分な注意を払わなければ、哲学的な探求が求める永遠なる真理へと通じる真の秩序が転倒され、後にあるものが先にくるという価値の転倒が生じてしまうことになるということを指摘していると考えられる。

つまり、そういった意味では、

こうしたスピノザの『知性改善論』における表象力と知性そして言葉と観念の区別をめぐる哲学的な議論においては、

「言葉」という存在は、知性の働きそのものではなく、脳や身体における感覚作用を基盤とする表象力の働きに基づいて、人々が日常的によく見て慣れ親しんでいるものを基準としてそれぞれの言葉が形づくられていくことになるため、

哲学的探求を含むあらゆる学問分野の探求においても、そうした「言葉」が指し示す物質や身体といったより分かりやすくより表象されやすい存在の方に注目するあまり、

永遠なる真理へと通じるより根源的で本質的な存在である知性や精神についての探求がおろそかになってしまう危険性があるということが語られていると考えられるのである。

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