スピノザの『知性改善論』の第一部における「記憶と忘却について」と題された章のなかには、人間の精神のことを一種の霊的な自動機械として定義するという一見すると少し奇妙にも見える議論が登場する。

そして、こうした『知性改善論』における人間の精神の定義のあり方からは、スピノザ哲学におけるすべてを必然的な永遠なる真理のもとに見る徹底した決定論的な世界観を読み解いていくことができると考えられる。

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『知性改善論』における「霊的自動機械」としての人間の精神の定義

こうした人間の精神のことを一種の霊的な自動機械として定義するスピノザの主張は、具体的には、『知性改善論』の「記憶と忘却について」と題された章の後半部分における以下のような記述のうちに見いだされることになる。

真なる観念は単純であり、あるいは、単純な諸観念から合成されていて、どのようにしてまたなぜある物が存在しあるいは生起したかを示すこと、並びに、その想念的結果が精神の中で対象の形相性に相応して進展することを我々は説いた。

これは古人が、真の知識は原因から結果へと進むと言ったのと同じ意味である。ただ彼らは、私の知るところでは、ここでの我々と違って、精神が一定の法則に従って活動するいわば一種の霊的自動機械であるということを決して考えていなかっただけである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、69~70ページ参照。)

ここでスピノザは、真なる観念、すなわち、哲学的探求において求められることになる真理とは、最も単純で明瞭かつ判明な観念、または、そうした最も単純な真なる観念が正しい秩序に基づいて合成された観念として認識されることになるという『知性改善論』におけるこれまでに述べてきた真なる観念の定義について再び言及したうえで、

想念的結果としての精神の内における観念の形成過程と、認識の対象となる事物の形相性としての現実的な生成過程が互いに呼応する形で並立して進展いくことになると述べている。

そしてそのうえでスピノザは、さらに、そうした観念や事物における正しい秩序に基づく形成や認識の原理のあり方は、古代の哲学者たちが真の知識や真なる観念は、原因から結果へと進むと考えていたのと同じことであると述べている。

つまり、上記の引用箇所においてスピノザは、そうした観念や事物における真なる知識や真なる観念が原因から結果へといわば演繹的な過程に基づく正しい秩序に従って必然的に形成されていくのと同様に、

そうした真なる知識や真なる観念の認識の主体となる人間の精神もまたそうした正しい秩序に従った必然的な過程において活動しているという意味において、

上記の問題となる人間精神の定義にあたる「精神は一定の法則に従って活動するいわば一種の霊的自動機械である」という言葉を語っていると考えられるのである。

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精神的な自動機械としての人間精神と物質的な自動機械としてロボット

ちなみに、スピノザの『知性改善論』においてこうした「自動機械」という言葉が登場するのは上記の引用箇所が最初というわけではなく、しばらく前へとさかのぼったこの書物の序論部分にあたる「正しい認識方法」と題された章における真理を否定する懐疑論者への反駁の議論のなかでも、以下のような形でそうした言葉についての言及がなされている。

「彼らは否定し、容認し、あるいは反対していながら、自分自身が否定し、容認し、あるいは反対していることを知らない。だから彼らは、精神をまったく欠く自動機械とみなされざるを得ないのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、39~40ページ参照。)

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上記の引用箇所の前後の文脈やその背景にあるデカルト哲学との関係については、以前に「スピノザ哲学における懐疑論批判と精神を欠く自動機械:スピノザの認識論哲学に基づく人間とAIを区別する唯一の哲学的な条件」において詳しく考察したが、

いずれにしても、この部分においてスピノザは、あらゆるものの存在を疑い続け、哲学的な真理にあたる真なる観念の存在そのものをも否定していくことによって、自分自身の意識や思考、さらにはそうした意識や思考の主体となっている自分自身の存在をも否定していく徹底的な懐疑論者に対して、

彼らは、人間と単なる物体とを分け隔てる唯一の条件である自分自身の精神における意識や思考といったものの存在までも強く疑い否定していくことによって、

精神をまったく欠く自動機械、すなわち、ロボットコンピューターのような単なる物体と同じ存在へと自分自身を貶めていると非難している。

しかし、その一方で、

前述した引用箇所においてスピノザ自身が語っているように、そうした意識や思考を有する人間の精神もまた、スピノザの主張によれば、一定の法則に従って必然的に活動しているだけの自らの選択における自由を持たない一種の霊的な自動機械であるとも語られている。

そしてこのように、それがたとえ物質的な原理に基づくものではなく、霊的すなわち精神的な原理に基づくものであるとはいえ、人間の精神もまた自由を持たない自動機械に過ぎないとするならば、

そうした精神的な自動機械としての人間の精神と、物質的な自動機械としてロボットやコンピューターとの間には、結局のところあまり大きな違いはないのではないか?という疑問が生じてくることになると考えられる。

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必然性と自由意志の彼岸にあるスピノザ哲学における永遠なる真理

そうした疑問についての答えは、『知性改善論』の記述のなかには直接的には記されてはいないのだが、こうしたスピノザによる人間の精神についてのある種独特の定義のあり方には、スピノザの哲学全体を貫いている徹底した必然主義と決定論的な世界観が現れていると解釈することができる。

スピノザの哲学においては、最終的に、精神も物質も含めたすべての存在は神あるいは自然と呼ばれる必然的な原理のうちへと統合されていくことになるのだが、

そういった意味では、人間の精神もロボットのような精神を欠く自動機械も、そうした一切の有としての神の存在のうちにおいては、すべてが唯一の統一的で根源的な原理に従って生起する必然的な存在として位置づけられることになり、それがスピノザ哲学において求められている永遠なる真理ということになる。

しかし、その一方で、そうしたスピノザの哲学思想においては、

人間の精神は、そうした意識や思考を持たない単なる自動機械のような物体とは異なり、一切の有としての神のうちへと自らを含むすべての存在が位置づけられていくという必然性そのものを自らの精神において自覚することができるという点において、両者の存在は本質的かつ決定的に大きく異なっているということも示されている。

そして、そうした人間の存在と自由意志そのものの定義をも覆していくような精神と物質、神と自然といった概念についての深い理解と深淵なる哲学的探求は、最終的に、

「すべてを永遠の相のもとに見る」というスピノザの主著である『エチカ』において記されているスピノザ哲学における根幹となる思想へとつながっていくことになると考えられるのである。

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