前回までに考察してきたように、スピノザの『知性改善論』の第一部においては、哲学的探求において求められていくことになる永遠なる真理へと通じる真なる観念というものが具体的にどのよう定義されることになるのかということについて、

虚構された観念や虚偽の観念あるいは疑わしい観念といったその他の種類の観念のあり方との比較と分析を通じて明らかにされていると考えられる。

そしてそれに対して、『知性改善論』の第二部においては、そうした哲学的探求における目標となる真なる観念を獲得していくために必要な具体的な探求の手段のあり方についての検討と議論がより詳細な形で展開されていくことになる。

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『知性改善論』における哲学探究の究極の目標とそのために必要な探求の手段についての検討

『知性改善論』の「方法の第二部:事物理解の二様の形式について」と題された章の冒頭部分おいてスピノザは、まずは、自分がこの書物を書いている意図と目的について改めて整理していく形で言及したうえで、

スピノザ自身が掲げている哲学的探求における究極の目標のあり方についても、その外郭となる議論を提示していくことになる。

さて最後にこの方法の第二部に至るため、私は最初にこの方法における我々の目標を、そして次にこれを達するための手段を明らかにするであろう

我々の目標は、明瞭かつ判明な観念を、すなわち身体が受ける偶然の刺激からではなく、純粋精神から生じる観念を持つことにある。

そして我々は、すべての観念を一に還元するため、それらを連結して秩序づけ、それによって我々の精神ができる限り自然の形相性をその全体に関してもその部分に関しても想念的に再現するように努めるであろう。

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、72~73ページ参照。)

ここでスピノザは、明瞭かつ判明な観念、すなわち、哲学的探求において獲得することが求められている真なる観念とは、人間の認識において身体が受ける偶然の刺激などを通じて生じる受動的なイメージや表象ではなく、

人間の精神における純粋なる知性の働きによって能動的に獲得されることになるということを改めて確認することによって哲学的探求において求められる真なる観念とその他の一般的な主観的なイメージや表象のあり方とを明確に区別したうえで、

哲学的探求においては、最終的に、そうした真なる観念のすべては、あらゆる存在の根源にしてすべてのものを包含する究極の一なる存在へと還元されていくことになるというスピノザが目指す哲学的探求における究極の目標となる地点が示されていると考えられる。

そしてここで述べられているように、そうした自然あるいは神とも呼ばれる究極の一なる存在の認識へと至るための哲学的探求の道のりにおいては、そうした探求の過程において獲得されていくことになるすべての真なる観念が正しい秩序において互いに連結されていくことが必要となると考えられることになるわけだが、

『知性改善論』の第二部においては、そうした哲学的探求において求められていくことになる真なる観念を互いに結びつけて新たなより高次の真なる観念を導き出していくために必要な正しい秩序に基づく探求の手段のあり方について詳しく論じられていくことになると考えられるのである。

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自体的存在と依存的存在という事物の存在の二つの様態の区分

そしてスピノザは、そうした哲学的探求における正しい秩序に基づく探求の手段というものが具体的にどのようなものであると考えられるのかということについて、

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探求の対象となる真なる観念の存在のあり方を二つの事物の様式のあり方へと区分していく形で以下のように語っていくことになる。

我々の終局目的のためには、すでに述べたように、事物がまったくその本質のみによって概念されるか、それともその最も近い原因によって概念されることが必要である。

すなわち、もし事物がそれ自体で存在しているなら、あるいは世に言う自己原因であるなら、それはまったくその本質のみによって理解されなければならないし、

これに反してもし事物がそれ自体で存在せず、存在のために原因を要するなら、それはその最も近い原因によって理解されなければならないのである。

なぜならば、実際のところ、結果を認識するということは、原因についてのより完全な認識を得ることにほかならないからである。

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、73ページ参照。)

ここでスピノザは、哲学的探求の対象となる事物の存在が他のいかなる事物の存在にも依存せずにそれ自体として成立している自体的存在である場合と、それが何らかの他の事物の存在を前提として成立している依存的存在である場合という二つの様態へと事物の存在の形式あり方を分けたうえで、

そうした事物の存在における二つの様態のうち、それ自体として存在している自体的存在についてはその事物自身の本質によって、他の事物に依存してその結果として生じている依存的存在については、その事物を生じさせた最も近い原因となる事物の本質によって理解されなければならないということが主張されている。

そしてここで語られている事物の存在における二つの様態のうちの前者にあたるそれ自体として存在している事物とは、自らが存在するのにほかの何ものも原因として必要としない究極の存在のことを意味することになるので、

それは一言でいえば、他のいかなる事物の存在にも依存せずに自らの本質のみによって自分自身を成り立たされていると同時に、あらゆる存在の究極の原因にしてすべてのものを包含する究極の一なる存在にあたる神あるいは自然のことを意味することになると考えられる。

そして、それに対して、こうした事物の存在における二つの様態のうちの後者にあたるほかの事物の結果として生じている事物とは、

最終的には、そうしたあらゆる存在の究極の原因となる神あるいは自然の内へと還元されていくことになるその他のすべての事物のことを意味していると考えられるのである。

スピノザが求める原因から結果へと進む演繹的な哲学探究の道

そして、そういった意味では、上記の引用箇所においては、

永遠なる真理へと通じる真なる観念を獲得していくことを目指す哲学的探求においては、常に、自体的存在から依存的存在へ、すなわち、原因から結果へと事物の存在を理解していく演繹的な過程に基づいて探求を進めていくことが必要であるということが示されていると考えられ、

そうした演繹的な手法に基づいて正しい秩序によって互いに連結されていくことになる真なる観念の体系の探求を通じて、

最終的には、すべての存在の根源にある究極の一なる存在にあたる神あるいは自然と呼ばれる存在のあり方が自らの本質のみによって明らかにされていくことになるというスピノザが目指す哲学的探求における究極の目標とそこに至るための外郭となる手段のあり方が示されていると考えられるのである。

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