前回書いたように、スピノザの『知性改善論』の「方法の第二部」においては、哲学的探求の目標となる真なる観念を獲得していくために必要な具体的な探求の手段のあり方が詳しく検討されていくことになる。

そして、こうした「方法の第二部」における冒頭の議論においては、まずは、事物の存在のあり方が、その事物がほかの何ものにも依存せずに自己原因としてそれ自体で存在している自体的存在と、その事物がほかの何らかの事物の作用の結果として生じている依存的存在という二つの様態へと区分されたうえで、

前者の自体的存在についてはその事物の本質のみによって、後者の依存的存在についてはその事物の原因となったより根源的な存在から理解していくという原因から結果へと進む演繹的な過程に基づいて探求を進めていくことが必要であると述べられているが、

ここでスピノザが述べている自己原因としての自体的存在という概念は、もともとは、デカルト哲学において登場する自己原因としての神の概念に由来する存在の捉え方であると考えられる。

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デカルト『省察』における自己原因としての神の概念

デカルトはその主著の一つにあたる『省察』の「第三省察」の部門において、具体的には以下のような形でこうした自己原因としての神の概念を提示している。

「この原因について、自らに由因してあるものか、それとも他のものに由因してあるのかを再び問うことができるのである。

というのも、自らに由因してあるとするならば、上述のことからしてこの原因そのものが神であることは明らかだからであって、

それというのはつまり、自らによって存在する力をそれは持っているのであるから、それは疑いなくまた、自らのうちにその観念があるところの完全性のすべて、言い換えるなら神のうちにあると私が抱懐する完全性のすべてを現勢的に所有する力をも持っているからである。」

(デカルト『省察』三宅徳嘉・小池健男・所雄章訳、白水社、164ページ参照。)

ここでデカルトは、まずは事物の存在のあり方を自らに由因してあるものと、他のものに由因してあるもの、すなわち、自分自身のみを根拠として存在する自体的存在と、他のものを原因として存在する依存的存在という二つの存在のあり方へと区分したうえで、

前者の自分自身のみを根拠として存在する自体的存在とは、自分自身によって存在する力を持つもの、言い換えれば、自分自身によって自らの存在をも創造することができるもののことを意味していて、それは自らを含むすべてのものの創造主としての神そのものことを意味することになるということを語っている。

上記の引用箇所においてデカルトは、自己原因という言葉そのものを神の属性として明示的な形で提示しているわけではないのだが、こうした「自らに由因して存在する」あるいは「自らによって存在する力を持つ」存在としての神の定義のあり方は、

ほかの何ものにも依存せずに自分自身のみを原因として存在する自己原因としての神の概念のことを指し示していると考えられるのである。

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スピノザの『知性改善論』における自己原因の概念に基づく統一的な哲学探究の手法の確立

そしてそれに対して、スピノザの『知性改善論』の「方法の第二部」の冒頭部分における事物の存在の二つの様態の区分をめぐる議論においては、前回も引用したように具体的には以下な形でこうした自己原因と呼ばれる概念が明示的な形で提示されている。

「我々の終局目的のためには、すでに述べたように、事物がまったくその本質のみによって概念されるか、それともその最も近い原因によって概念されることが必要である。

すなわち、もし事物がそれ自体で存在しているなら、あるいは世に言う自己原因であるなら、それはまったくその本質のみによって理解されなければならない

これに反してもし事物がそれ自体で存在せず、存在のために原因を要するなら、それはその最も近い原因によって理解されなければならないのである。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、73ページ参照。)

冒頭でも述べたように、ここでスピノザは、事物の存在のあり方を、その事物がほかの何ものにも依存せずにそれ自体で存在している自体的存在と、ほかの何らかの事物の作用の結果として生じている依存的存在という二つの様態へと区分したうえで、

哲学的探求においては、前者の自体的存在についてはその事物自身の本質によって、後者の依存的存在についてはその事物を生じさせた最も近い原因から理解されなければならないと主張している。

そしてスピノザは、そうした事物の存在の二つの様態のあり方に合わせて、哲学的探求な探求のあり方についても、

自体的存在についてはそれ自身の本質についての探究を行い、依存的存在についてはその事物の原因についての探求を行うという二つの探求の手法のあり方を提示していると考えられる。

しかし、その一方で、

こうした自己原因という概念に注目して前者の自体的存在のあり方を捉え直していく場合、それ自体で存在している自体的存在についても、その本質の探究とは、すなわち、そうした自分自身の存在を成り立たせている自己原因としての原因の探求のことを意味することになる。

つまり、そういった意味では、

こうした『知性改善論』において展開されている自己原因としての自体的存在すなわち神の本質へと至るための哲学的探求の手法をめぐる議論においてスピノザは、

自体的存在と依存的存在という事物の存在の二つの様式の区分に対応して、事物の本質と事物を成り立たせている原因についての探求という二つの手法へと分断されていた哲学的探求の方法のあり方を、

デカルト哲学における自己原因としての神の概念を新たに導入することを通じて、そうした自体的存在としての神あるいは自然と呼ばれる存在をも自己原因として因果関係の系列のうちへと位置づけることによって、

原因から結果へと進む演繹的な過程に基づいて神あるいは自然を含むあらゆる存在についての哲学的な理解を深めていくという一つの統一的な哲学探究の手法へと統合していくことを試みていると考えられるのである。

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