前回書いたように、『知性改善論』の「定義の諸条件について」と題された章における前半部分の議論においてスピノザは、一般的な存在や事物、すなわち、創造された事物についての哲学探究における正しい定義のあり方について、二つの円の定義のあり方を例に挙げていく形で詳しく考察している。

そしてその後、この章の後半部分においては、哲学探究における正確な事物や存在の定義において必要な条件についての詳細な分析がさらに進められていくなかで、

そうした一般的な事物としての創造された事物だけではなく、永遠なる真理へと通じる創造されざる事物においても同様に適用することができる哲学探究における普遍的な定義の条件のあり方が示されていくことになる。

スポンサーリンク

哲学的な定義のあり方が否定的ではなく肯定的な定義であるべき理由

『知性改善論』の「方法の第二部」における「定義の諸条件について」と題された章の前回に続く箇所においてスピノザは、まずは、これまでの考察において確認されることになった哲学探究における正しい定義あり方について、それはさらに以下のような条件を満たすものでなければならないと主張していくことになる。

「事物の概念すなわち定義は、他のものと結びつけずにただそれだけを見てそれから事物のすべての特性が結論され得るようでなければならない。…

そしてまたこの第二の要件から、すべての定義が肯定的でなければならないということが生じるということも特に言わずして明らかである。

私はここで知性による肯定のことを言うのであって、肯定的に理解されながらも語彙が乏しいためにしばしば否定的に表現されることのあり得る言葉上のことはほとんど顧慮していない。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、76ページ参照。)

ここでスピノザは、一般的な創造された事物についての定義であれ、永遠なる真理へと通じる創造されざる事物についての定義であれ、それが哲学的な意味における正しい定義であるためには、それは、定義そのものからその事物における固有性や属性のすべてが必然的に導出されるものでなければならないということを確認したうえで、

さらに、そうした哲学的な意味における正しい定義においては、すべての定義は知性における肯定的な定義として示されなければならないと述べている。

なぜならば、例えば、人間とは何かという問いに答えるためには、それは魚ではない、爬虫類でもない、昆虫でもなければクモでもないといくら否定的な定義を重ねていったとしても、そうした否定的な定義によっては、人間そのものの存在についてはいつまで経ってもほとんど何ごとも明らかになることはないように、

スポンサーリンク

知性において肯定的ではない定義、すなわち、否定的な形でなされる定義においては、その存在や事物が何ではないという定義の可能性の排除だけが繰り返されていくだけで、その事物が何であるかという存在そのものの本質の核心を示す哲学的な定義が見いだされることはあり得ないと考えられるからである。

スポンサーリンク

言語表現における否定的な定義と知性における否定的な定義の違い

そしてそれ続いてスピノザが、こうした「すべての定義は肯定的でなければならない」という哲学的に正しい定義の条件が、知性による肯定のことを意味していて、単に言葉上の意味においての肯定のことを意味しているわけではないと述べていることについては、以下のように解釈することができるだろう。

例えば、永遠なる真理へと通じる創造されざる事物、すなわち、スピノザにおける神すなわち自然、あるいは、そうした永遠なる真理へと通じる哲学的探求の出発点となる人間の知性における自己意識や精神といったものの存在の定義のあり方について考えてみた場合、

そうした神や精神といったものの存在に対しては、しばしば「不死」あるいは「非物質的」といった規定がなされることがある。

しかし、こうした「不死」あるいは「非物質的」といった規定がそうした言葉自体としての表現において「不」や「非」といった否定辞を含む言語表現であるからといって、こうした言葉が意味する本質となる観念そのものが否定的なものであるということを意味することにならない。

なぜならば、「不死なるもの」という観念は、その存在が消滅することがない永遠なる存在であるという意味において「死すべきもの」に優越する肯定的な観念であると考えられ、

「非物質的存在」という観念も、それが物体における延長としての空間と時間における限界を持たないという意味において、むしろ「物質的存在」を超越した存在のことを意味する肯定的な観念として捉えることができるからである。

したがって、こうした「不死」あるいは「非物質的」といった存在の規定のあり方においては、言語表現においては否定的な規定がなされているものの、観念の本質を捉える知性による理解においては、そうした観念は必然的に存在についての肯定的な規定のあり方として理解されていくことになる。

そしてつまりはそういった意味において、哲学探究におけるすべての定義は、言葉上の表現ではなく、知性による理解において、常に肯定的な定義として示されるべきであると考えられるのである。

・・・

「哲学」のカテゴリーへ

スポンサーリンク