前回書たように『知性改善論』における「永遠なる事物を認識する手段について」と題された章の冒頭部分においてスピノザは、一般的な事物にあたる変化する個物の存在を成り立たせている真に存在する実在的有である永遠なる事物としての自然の存在のうちに、哲学探究における究極の目標となる永遠なる真理の存在を見いだしていくことになる。

そして、この章のその後に続いていく箇所においてスピノザは、こうした変化する個物と永遠なる事物との区別をめぐる議論を通じて、哲学探究における究極の目標となる永遠なる事物というものが具体的にどのような性質を持った存在として定義されることになるのかという永遠なる真理の一つの輪郭を提示する議論を展開していくことになる。

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永遠なる事物に内的かつ本質的に依存する存在として変化する個物の存在

『知性改善論』の「永遠なる事物を認識する手段について」と題された章の前回引用した箇所に続く部分においてスピノザは、まずは、一般的な事物にあたる変化する個物と、真に存在する実在的有である永遠なる事物の両者が互いにどのような関係において存在しているのかということについて以下に語っていくことになる。

変化する個物の本質はその系列すなわちその存在する秩序からは引き出されない。存在する秩序は外的特徴や関係あるいはせいぜい事情といったような、すべての事物の内的本質とは全くかけ離れた事柄以外の何物をも我々に提示しないから。

この本質は実にただ確固たる永遠なる事物から、同時にまた、真の法典としてのこれらの事物の中に刻みこまれているところの法則、それに従って一切の個物が生起しかつ秩序づけられているところの法則からのみ求められる。

のみならずこれらの変化する個物内的にかつ本質的にこうした確固たる事物に依存し、後者なくしては前者は存在することも概念されることも不可能である。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、7980ページ参照。)

ここでスピノザは、現実に存在する一般的な事物にあたる変化する個物のすべては、それらの個物の存在を成り立たせている真に存在する実在的有である確固たる永遠なる事物の法則に基づいて成立しているので、

一般的な事物にあたる変化する個物についても、そうした事物の本質を把握するためには、最終的に、哲学探究における究極の目標となる永遠なる事物についての理解が不可欠になるということを語っている。

そして、ここでスピノザが、そうした一般的な事物としての変化する個物が永遠なる事物の存在を根拠とすることによってはじめて存在することになるということについて、変化する個物は外的にではなく内的かつ本質的永遠なる事物の存在に依存すると規定していることは、一つの注目に値する。

つまり、スピノザは、こうした永遠なる事物の存在によって一般的な事物としての変化する個物の存在が成立していくという創造の働きは、

世界の外に存在する神を原因とする外的な創造によってではなく、そうした変化する個物の系列をも自らのうちに包含する神あるいは自然と呼ばれる永遠なる事物内的な作用として成立しているということを語っていると考えられるのである。

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スピノザ哲学における個物としての永遠なる事物の定義

そして上記の引用箇所に続く『知性改善論』の記述においてスピノザは、こうした神あるいは自然と呼ばれる永遠なる事物の存在における一つの核心となる性質について以下のような形で解き明かしていくことになる。

「従ってこれらの確固たる永遠なる事物は、たとえ個物であるとはいえ、しかしその偏在性と極めて広きにわたる能力のゆえに、

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我々にとってあたかも普遍概念のごときもの、あるいは変化する個物を定義するための類のごときものであり、また一切の事物の最も近い原因である。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、80ページ参照。)

上記の文の前半部分においてスピノザは、一般的な事物としての変化する個物を含むすべての存在を成り立たせている究極の原因にあたる永遠なる事物の存在は、偏在性をもった存在であると同時に、それは個物として位置づけられる存在であると語っている。

もっとも同じ文の後半部分においてスピノザは、それは「普遍概念のごときもの」であり「類のごときもの」であるとも語っているが、重要なのは、ここでスピノザは「ごとき」という比喩表現を使っていることにあり、

結論としては、上記の文においてはスピノザは、そうした真に存在する実在的有としての永遠なる事物の存在は、抽象的な普遍概念ではなく一つの実在的な個物として存在しているということを主張していると言える。

例えば、プラトンのイデアの概念などに代表されるように、

哲学においては一般的に、すべての存在の根源にある永遠なる真理の存在は、一般的な事物としての個物を成り立たせている「善そのもの」や「美そのもの」といった普遍的な観念のうちに求められることが多い。

そういった意味では、こうしたスピノザ哲学における個物としての永遠なる事物という思考は、哲学史における主流となる思想の流れのなかではかなり珍しい異端の思考となっていると考えられるのである。

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個体的であると同時に普遍的でもある永遠なる真理の存在

それではこうしたスピノザ哲学における個物としての永遠なる事物の存在は、現実に存在する一般的な事物にあたる変化する個物の存在とどのような点において異なると考えられることになるのかということについてだが、

それについては結局、上記の文においてスピノザ自身が語っている偏在性という性質に拠るところが大きいと考えられる。

つまり、スピノザにおける個物としての永遠なる事物の存在とは、自然界の内に局所的に存在する目に見える一般的な事物でもなければ、人間の頭の中だけにあるのかもしれない単なる抽象的な概念でもない実在的有としての個体的存在、より具体的に言えば、個体的であると同時に普遍的でもある永遠なる真理のうちに求められるということである。

そもそもデカルトやスピノザの哲学においては「我思うゆえに我在り」といった言葉に象徴される自己意識の存在という個体的な存在の探求を通じてすべての存在の根源にある永遠なる真理の存在が解き明かされていくことになるが、

そういった意味では、そうした自己意識という個体的存在の探求を通じて得られることになる永遠なる真理の存在そのものが必然的に個体性普遍性という一見相反するようにも見える二つの性質が自らのうちに統一された存在として現れていくことになるのかもしれない。

哲学探究における究極の目標となる永遠なる真理は、それがすべての存在の本質を解き明かす真理であるという意味において普遍的な存在でなければならない。

しかし、そうした永遠なる真理は、それが単に人間の頭の中だけ考えられただけの机上の空論とならない地に足のついた真理であるためには、漠然とした抽象的な概念ではなく実在的有としての個々の事物の存在に基づいた個体的な存在でなくてはならない。

つまりはそういった意味において、こうした『知性改善論』において登場するスピノザの哲学における個物としての永遠なる真理の定義が示されていると考えられることになるのである。

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