前回書たようにスピノザの『知性改善論』と題された未完の書物の最終章にあたる「知性の力とその諸特性について」という章では、人間の精神における「知性」と「思惟」の働きが本質的な意味においては同一の存在として把握されることが示されたうえで、

そうした人間精神における純粋な思惟や思考の働きとしての知性の定義は、人間自身が自らの精神の内なる思惟や思考の働きの内省と分析を進めていくことによっておのずから明らかになると語られている。

しかしその一方で、こうした『知性改善論』の知性の定義をめぐる議論においては、一見すると、知性の特性を把握するためには先に知性の定義を知ることが必要であり、知性の定義を知るためには先に知性の特性を把握する必要があるという一種の循環論法ともいえる矛盾が生じているようにも見える。

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スピノザの『知性改善論』における知性の定義をめぐる循環論法

『知性改善論』の「知性の力とその諸特性について」と題された章においてスピノザが知性の定義が人間の精神においてどのように把握されることになるのかを語っている箇所について、前回は割愛した部分も含めてその全体の論理構成を検証していくと以下のようになる。

「だかしかし、これまで我々はまだ定義を発見する何らの規則をも持たなかったし、そしてまたそうした規則を立てるためには、まず知性の本性すなわち定義とその能力とが認識されなくてはならないから、

これからして、知性の定義は、それ自体で明瞭でなければならない、それとも我々はそれについて何ごとをも理解し得ないかであるということになる。しかしその定義はそれ自体では完全には明瞭でない

ところが知性の諸特性は、知性から生ずる一切のものと同様、まず、その本性が認識されなくては明瞭かつ判明に知覚し得ないものであるから、それゆえに、もし我々が明瞭かつ判明に理解するところの知性の諸特性に注目すれば、知性の定義はおのずから明らかになるであろう。

だから我々はこころに知性の諸特性を列挙し、これを注意深く観察し、そして我々に備わる生得の道具について検討を始めよう。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、83ページ参照。)

ここでスピノザは、永遠なる真理へと至る哲学探究の方法論における正しい秩序と規則を打ち立てるためには、まずはそうした哲学的認識の主体となる人間の精神における知性の存在についての明瞭な定義が必要となると述べたうえで、

知性の定義はそれ自体では完全には明瞭ではないが、そうした知性の存在について人間の精神が明瞭かつ判明に理解することができる様々な特性を把握することができれば、そうした知性の特性あるいは固有性の把握を通じて知性そのものの定義についてもおのずから明らかになると語っている。

しかしその一方で、同じ『知性改善論』の第二部の前半部分における事物の内的本質としての定義とその固有性や特性との区別をめぐる議論においてスピノザは、円の存在における定義と固有性および本質と特性の違いのあり方を例に挙げながら以下のようにも語っている。

定義が完全と言われるためには、事物の内的本質を明らかにしなければならないであろう。そして本質の代わりにある固有性をもってすることがないように用心しなければならない。…

もし円が、中心から円周へ引かれた緒線の相等しい図形であると定義されるなら、何びともこうした定義が少しも円の本質を明らかにせず、ただそのある特性を明らかにするにすぎないことを見逃さないであろう。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、75ページ参照。)

上記の引用箇所においてスピノザは、通常の場合、事物の内的本質を規定する完全なる定義においては、事物における単なる固有性や特性の把握からさかのぼってそうした事物や存在についての正しい定義が把握されることはなく、

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哲学的探求においては、事物や存在の内的本質そのものを明らかにする特殊的肯定的本質としての定義から事物や存在の固有性や特性の導出へと進んでいく、原因から結果へと進む演繹的な思考の道筋において探求進められるべきであるということを語っている。

つまりそういった意味では、上記の引用箇所において述べられている、事物や存在についての完全なる定義は事物についての固有性や特性の把握から導出されることはなく、それとは逆に、哲学的探求においては、事物や存在における特殊的肯定的本質としての定義から事物や存在の固有性や特性の導出へと探求が進んでいくことになるというスピノザの主張は、

前述した引用した箇所において述べられている、知性の定義は人間の精神が自らの知性の特性や固有性を明瞭かつ判明に理解していくことによっておのずから明らかになるというスピノザの主張と、互いに矛盾するようにも見える主張となっていると考えられ、

そこには、一見すると、知性の特性や固有性を知るためにはその前にまずは知性の定義について把握する必要があるが、そうした知性の定義をそのものは知性の特性を把握することによってしか明らかとならないという一種の循環論法ともいえる誤謬推理が生じてしまっているとも解釈することができると考えられるのである。

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人間の精神の内に生得的に組み込まれている真なる観念としての知性の定義の自らの精神における自覚的な認識

それではスピノザは、こうした比較的単純な一種の循環論法ともいえる誤謬推理にまったく気づくことなく、この未完の書物の終盤となる場面において、改めて、一般的な事物や存在についての定義を、そうした事物や存在についての特性や固有性から導き出そうとしているのかというと、もちろんそういうわけではなく、

ここで重要となるのは、前述したはじめの引用箇所においてスピノザが知性の定義は「それ自体では完全には明瞭ではない」と語っている点にあると考えられる。

つまりこうしたスピノザの言葉は、より正確な意味においては、人間の精神は自らの思考および知性の働きについて何も知らないタブラ・ラサとも呼ぶべきまったくの白紙の状態にあるということを意味しているわけではなく、

人間の精神はそうした知性の定義についての真の観念をすでに自らの内に保有していながらその存在についていまだ完全に明瞭には理解していない状態にあるということを示していると考えられるのである。

デカルトやスピノザの哲学においては「我思うゆえに我在り」といった言葉に象徴されるように、人間の精神や意識における思考の働きとしての知性の存在は、

それ自体において最も確実で明証的な直観的認識であると同時に、それは人間の精神の内に生得的に備わっている第一の真なる観念としても位置づけられることになる。

そして、そういった意味では、

確かに、人間の精神は自らの外にある一般的な事物や存在についての哲学的探求においては、自らの思考あるいは知性の働きによってそうした事物の内的本質にあたる特殊的肯定的本質としての定義を見いだしてから、そうして見いだされた事物の定義に基づいて事物の固有性や特性の導出へと進んでいくべきであるものの、

そうした哲学的探求の主体となる人間の精神における思考や知性の存在については、そうした思考や知性の働きの内にア・プリオリに、すなわち、生得的に組み込まれている秩序や規則のうちにすでに知性の定義としての真なる観念が予め含まれていると考えられることになるので、

人間の精神はそうした自らの内にある思考や知性の存在については、その他のあらやる事物や存在についての定義の場合とは異なり、

自らの精神の構造そのものを深く探究していく深淵なる内省的な哲学探求を行っていくことを通じて、人間の精神の内に生得的に組み込まれている真なる観念としての知性の定義をついに自らの精神において自覚的に明瞭かつ判明に認識するに至ることになると考えられるのである。

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