前回書たようにスピノザの『知性改善論』の最終章にあたる「知性の力とその諸特性について」と題された章では、一見すると、一種の循環論法にも見える知性の定義と特性の把握をめぐる議論を通じて、

人間の精神は自らの精神の構造そのものを探究していく内省的な哲学探求を通じて、自らの内に生得的に組み込まれている知性の特性とその定義についての自覚的で明瞭な認識へと至るということが示されていると考えられる。

そして、この章における後半の議論においては、そうした知性の定義についての自覚的で明瞭な認識へと至るために必要な自らの精神の内なる知性の働きの特性についての詳細な分析と吟味が行われていくことになる。

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「確実性」としての知性の第一の特性と論理的整合性を備えた必然的な認識

『知性改善論』の「知性の力とその諸特性について」と題された章の後半部分においてスピノザは、まずは、自らの精神における思考および知性の働きについての内省的な哲学探求を通じて見いだされていくことになる知性の働きにおける第一の特性について、それは具体的には以下のようなものであると述べている。

「一、知性は確実性を包含する。言い換えれば、知性は事物が知性の中に想念的に含まれている通り形相的に存することを知る。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、83ページ参照。)

ここでスピノザは、知性の働きに基づく認識においては、それが知性の内なる真なる観念における正しい秩序に基づく認識である限り、そうした完全に知性的な認識は、虚偽の観念や虚構された観念といった誤った認識へと陥ることがない確実な認識としてもたらされることになるとしたうえで、

そうした知性における確実な認識においては、知性的な認識の対象となる事物は、知性の内に想念的に含まれている真なる観念とまったく同じ定義と内的本質とを備えた存在として、現実における形相的な存在としても実在することになると語っている。

こうしたスピノザにおける知性の確実性をめぐる議論は、分かりやすく言えば、以下のようなことを意味していると考えられる。

身体的な感覚に基づく認識においては、そこには見誤りや聞き違いといった感覚の限界に基づく誤りが常に存在し得る以上、そうした感覚的な認識はどこまで行っても虚偽や虚構の可能性がある不確実で偶然的な認識にとどまることになる。

しかしそれに対して、人間の精神における知性の働きに基づく認識においては、それが知性の内なる真なる観念における正しい秩序に基づいて導き出されることになる論理的整合性を備えた完全な認識である以上、

そうした知性の働きに基づく論理的整合性を備えた認識は、決して偶然的な誤謬へと陥ることのない確実で必然的な認識となると考えられことになる。

そして、そうした知性の働きに基づく確実で必然的な認識によって把握されることになる真なる観念においては、そうした知性的な認識に基づいて把握された真なる観念そのものが確実で必然的な存在である以上、そうした真なる観念の対象となる存在の実在性についても、その実在が確実で必然的なものとなると考えられるのである。

「絶対性」としての知性の第二の特性と人間の知性における絶対的な認識形式

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そして、こうした知性の特性における確実性の議論に続いてスピノザは、そうした知性の働きにおける第二の特性として、その次に以下のような点が挙げられることになると語っている。

「二、知性はある事柄を絶対的に知覚する。すなわちある種類の観念を絶対的に形成する。しかしまたある種類の観念はこれを他の観念から形成する

例えば量の観念は他の思想を考慮に入れずに絶対的に形成するが、運動の観念は量の観念を考慮に入れてのみ形成する。」

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、84ページ参照。)

ここでスピノザは、知性の働きは、ある種類の認識については、それを他のあらゆる認識や観念からの影響を一切受けることがないそれ自体として成立する絶対的な認識として把握するのに対して、

その他の種類の認識については、知性においてすでに絶対的な認識として形成されている別の認識や観念に基づいて把握されることになるということを、量と運動という二つの概念を例に挙げていく形で説明している。

こうしたスピノザにおける知性の絶対性をめぐる議論は、分かりやすく言えば、以下のようなことを意味していると考えられる。

その事物が一であるか多であるか、多であるとすればそれはどれほどの数量になるのかといったことを規定する量の概念は、人間の知性的な認識における根源的な認識形式の一つとなっているので、こうした人間の知性における量の概念をその他の別の概念に基づいて説明することはできない。

したがってそれは自分自身以外のいかなる認識や観念によっても影響を受けることがない知性の認識における絶対的な認識に基づいて形成される概念ということになる。

それに対して、運動の概念においては、それは事物が時間経過にしたがって空間的位置を変化していくことを意味する概念ということになるので、そうした運動の概念そのものは、時間や空間における数量の変化を規定する量の概念の存在を前提としなければ成立し得ない。

つまり、運動の概念は、量の概念といった自分自身以外の別の概念の存在に依存して形成される概念である以上、それは人間の精神における知性的な認識に基づいて形成される概念であるとはいえ、絶対的な認識に基づいて形成される概念であるとは言えないということになる。

ちなみに、そういった意味では、上記の運動の概念についての考察の例をみても明らかな通り、

スピノザは、人間の精神における知性の働きに基づく絶対的な認識形式のあり方として、量の概念のほかにも時間や空間といった概念のことを念頭においてこうした知性の絶対性についての議論を展開していると考えられる。

そして、より一般的な意味においては、

人間の精神における知性の認識は、哲学的探求の究極の目標となる神あるいは自然と呼ばれるような永遠なる事物についての根源的な認識へと近づいて行けば行くほど、その認識は、自分自身のほかにいかなる存在にも依存することがない絶対的な認識のみによって構成されていくことになると考えられるのである。

・・・

以上のように、こうした『知性改善論』の「知性の力とその諸特性について」と題された章の後半部分における人間の精神における知性の特性をめぐる議論においては、

まずは、知性の第一の特性にあたる確実性と、知性の第二の特性にあたる絶対性という二つの特性に基づいて、人間の精神における知性の働きについての哲学的な理解が深められていくことになると考えられるのである。

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