前回までに書いてきたようにスピノザの『知性改善論』の最終章にあたる「知性の力とその諸特性について」と題された章では、人間の精神における知性の特性のあり方が順番に提示されていくことになる。

そして、前回取り上げた「永遠の相」というスピノザの哲学思想を特徴づける印象的な言葉によって表現される知性の第五の特性にあたる永遠性の観念に続いて、スピノザは知性の第六の特性にあたる必然性の観念についての説明を行っていくことになるのだが、

そこでは、一見すると、現実の世界と人間の頭の中における夢や想像の世界における秩序の関係が逆転しているかのような少し奇妙な議論が登場することになる。

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「必然性」としての知性の第六の特性についての『知性改善論』における記述

『知性改善論』の「知性の力とその諸特性について」と題された章の前回に続く部分においてスピノザは、人間の精神における知性の第六の特性について、それは具体的には以下のような特性であると語っている。

六、我々が明瞭かつ判明に形成する観念は、我々の本性の必然性だけから生じるように見え、絶対的に我々の能力にのみ依存する観がある。

混乱した観念はこれと反対である。すなわちそれは我々の意に反して形成される。

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、85ページ参照。)

ここでスピノザが語っている明瞭かつ判明という概念は、デカルトやスピノザの哲学において、人間の精神の内なる観念の真理性を明証的に示す一つの標識として用いられている概念にあたり、

例えば、人間の精神における自己意識の存在の明証性のように、それは一言でいえば、人間の知性において把握された哲学的に真なる観念のことを意味することになる。

つまり、上記の引用箇所においてスピノザは、人間の精神の働きにおける知性の本性に基づいて必然的に形成される観念というものは、

それが真であるか偽であるかが定かではない偶然性に左右される不確かな観念ではないという意味において、必然的に真なる観念として形成されることになると主張していると考えられるのである。

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現実の世界と夢や想像の世界における事物の存在の確実性の差異

しかし、その一方で、

そうした人間の精神における知性の働きにおいて必然的に形成されることになる真なる観念の存在が我々の精神における能力のみに依存していて、それとは反対に、その真偽が定かではない不確かな混乱した観念は我々の精神の働きに反して形成されることがあるというのは、

一般的な事物における人間の認識のあり方を前提として考えた場合、一見する少しおかしな議論であるようにも思われる。

なぜならば、通常の認識のあり方においては、現実に存在している確かな事物は、人間の精神の働きとは無関係に存在することが多いのに対して、より不確かで混乱した状態にある夢や想像の世界における事物の方が人間の精神が思い描くイメージ通りにその存在のあり方を変えていくように思えるからである。

例えば、現実の世界においては、人間の精神が明日の天気が晴れになることをいくら強く念じたとしても、そうした人間の精神の働きに反して、大事な旅行に行く日に雨が降ってしまうことはよくあることなのに対して、

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同じ人間の精神は、自分の頭の中にある想像の世界なかだけでなら、好きなように天気が晴れたり雨が降ったりするイメージを自由につくり上げることができる。

つまり、一般的な認識のあり方においては、スピノザが上記の引用箇所に述べている内容とは反対に、

人間の意志に反して形成される現実の世界における事物の方が確実性の高い存在であるのに対して、人間の精神の働きのみに依存する夢や想像の世界の方がはるかに不確かで混乱した観念によって形づくられているように思われるということである。

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想像の世界と現実の世界と永遠なる観念の世界というスピノザ哲学における事物の存在の三つの階層の区分

それでは、こうした一見すると奇妙にも思える認識の食い違いの原因は、いったいどのようなところにあるのかというと、それについては、

スピノザが事物や観念の存在のあり方を、人間の頭の中だけにある夢や想像の世界におけるイメージとしての存在と、現実の世界における個々の事物の存在のほかに、さらにもう一つ、そうした現実における個々の事物の存在の根源にある永遠なる観念の世界という三つの階層に分けて捉えているということに求めることができる。

人間の精神は確かに夢や想像の世界を形づくる表象の能力においては、不確かで混乱した様々な観念をつくり上げていくことになり、

その限りにおいては、人間の精神に反して形成されることもある現実の世界における事物の方がより確かな存在であるとみなすことができる。

しかし、そうした現実の世界における様々な事物の存在も、決して永遠に持続し続けていくような完全な意味における確かな存在であるというわけではなく、その存在のあり方は偶然性に左右される形で常に移り変わっていくことになる。

そして、そうした想像の世界や現実の世界における恣意性や偶然性に左右される不確かな事物や観念の存在のあり方に対して、

人間の精神における知性の働きにおいて必然的に見いだされていくことになる哲学的な真理としての永遠なる観念の存在は、そのほかの不確かな存在とは異なる永遠不変なる確実性と必然性を備えた真なる観念として位置づけられることになると考えられるのである。

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永遠なる存在としての神の本性に基づいて必然的に形成される真なる観念

また、もう一つ別の観点からも説明を試みていくことにすると、そもそもスピノザ哲学においては、人間の知性を含む精神の存在は、最終的には、そのほかの世界におけるすべての存在と共に、永遠なる存在としての神の存在の内に包含されていくことになる。

そして、そういった意味では、こうした人間の精神における知性の本性における必然性というものは、最終的には、そうしたすべての存在を包含する永遠なる存在として神の本性へと通じていくことになるので、

そうした自らの精神の内なる知性の本性において必然的に見いだされていくことになる観念というものは、それが永遠なる存在としての神の本性に基づく観念へと通じていくことになるという意味においても必然的に真なる観念として位置づけられることになると考えられることになる。

そして、スピノザの『知性改善論』においては、つまりはそういった意味において、人間の精神における知性の第六の特性として必然性という観念が新たに提示されていると考えられるのである。

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