前回書いたように、スピノザの『知性改善論』の最終章にあたる「知性の力とその諸特性について」と題された章においては、

人間の精神における知性の第三の特性として挙げられた無限性の観念についての論証と対称を成す議論として、知性の第七の特性として位置づけられる限定性の観念についての検証が行われていくことになる。

そして、それに続いてスピノザは、人間の精神における知性の最後の特性にあたる第八の特性として完全性の観念を提示していくことになる。

スポンサーリンク

「完全性」としての知性の第八の特性についての『知性改善論』における記述

『知性改善論』の「知性の力とその諸特性について」と題された章においてスピノザは、人間の精神における知性に最後の特性にあたる第八の特性について、それは具体的には以下のような特性であると語っている。

八、観念は、その表現する対象の完全性が大であれば大であるだけ完全である。

実際我々は小堂を案出した建築師を、広壮な殿堂を案出した建築師ほどには賛美しない。

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、85ページ参照。)

ここでスピノザは、人間の精神における知性の働きによって形成される真なる観念の完全性は、その観念が表現する対象となる存在の完全性の大きさに比例して大きくなると述べている。

そしてそのうえでスピノザは、そうした知性の働きによって形成される真なる観念の完全性の大きさの度合いの違いについて、

それを「小堂を案出した建築師」「広壮な殿堂を案出した建築師」すなわち、小さい粗末な建物における完全性と、巨大な聖堂のような壮麗な建造物における完全性の違いを比喩として用いることによって説明を試みていると考えられるのである。

スポンサーリンク

「粗末な小堂」と「広壮な殿堂」の比喩における観念の完全性の把握の問題点

しかし、こうした『知性改善論』において示されている「粗末な小堂」と「広壮な殿堂」における完全性の違いに基づいて人間の精神における知性の働きによって形成される真なる観念の完全の大きさの違いを説明しようする試みは、

一見すると、観念の対象となる事物の物理的な大きさによって観念そのもの完全性の度合いに違いが生じていくかのような誤解を生じかねない比喩となっているようにも見える。

例えば、現代の時代において、ただ巨大なだけの100階建ての巨大なコンクリート製の箱のような高層ビルを建てたとしても、そうした巨大な建造物に見いだされる文化的あるいは創造的な価値は、

大きさだけで見ればそうした高層ビルの100分の1の大きさにも満たない1300年前に建立された世界最古の木造建築物である法隆寺の足元にもおよぶことがない。

さらに言えば、そうした巨大な高層ビルの100億分の1にも満たない微小な存在に過ぎない人間の身体を形づくる細胞一つ一つの精巧なシステムは、そうした単なる巨大な無機物に過ぎない高層ビルとは比べものにならないほどの精緻なる完全性を備えている。

つまり、そうした観念の対象となる事物や存在の単なる物理的な大きさからは、人間の知性における観念の完全性の度合いを測ることはできないと考えられるのである。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

人間の精神と神の精神における真なる観念の完成度の差異

それではスピノザは、具体的にどのようなことを念頭において、こうした「粗末な小堂」と「広壮な殿堂」という比喩を用いる形で人間の知性における観念の完全性の大きさの違いを説明することを試みているのかというと、

それについては、上記の引用箇所においてスピノザが、粗末な小堂と広壮な殿堂という建物のそのものではなく、その創り手となった建築師に焦点を当ててこうした比喩を示していることにより多くの注意を払うことが必要だと考えられる。

そうするとこの場合、人間の精神において把握されることになる広壮な殿堂というものは、分かりやすく言えば、現実に存在するすべての事物を包含する広大な世界そのもののことを意味することになり、

そうした広壮な殿堂としての現実に存在するすべての事物を包含する広大なる世界の創造者とは、すなわち、世界の創造者としての神の存在そのもののことを意味することになる。

そしてそれに対して、人間の精神において把握されることになる粗末な小堂の世界というものは、自らの精神の内なる想像の世界ということになると考えられるが、

この場合、そうした粗末な小堂としての一人一人の人間の精神の内になる小さな想像の世界の創造者とは、他ならぬ人間自身の精神自身のことを意味することになる。

つまり、そういった意味では、世界の創造者である神によって創り上げられたすべての存在を包含する広大な世界そのものを対象とする真なる観念の完成度は、同じ真なる観念であるとは言っても、

人間の精神が自ら内に見いだしていくことになる小さな想像の世界における観念の完成度を大きく凌駕することになるといった意味で、こうした比喩表現が用いられていると解釈することができると考えられるのである。

スポンサーリンク

小さな完全性をもつ自己意識の真理から大きな完全性をもつ世界の真理へと至る哲学的探求の営み

この問題について、少し別の観点からも考察を進めていくとすると、それは例えば、以下のような形で説明していくこともできる。

人間の知性は、自らの精神についての内省的な探求を通じて、「我思うゆえに我在り」といった言葉に象徴される自己意識の存在の明証性といった真なる観念を見いだしていくことになるが、

哲学的探求は、そうした自らの精神の内だけにとどまる小規模な真なる観念の把握だけにとどまらずに、そこから世界全体やその根源にある神の存在へと通じるより大規模な真なる観念の把握へと向けて自らの探求を進めていくことになる。

そして、そういった意味においては、

人間の精神における哲学的探求の営みとは、より小さな完全性をもつ自己意識の内なる真なる観念についての直観的な認識から出発して、より大きな完全性をもつ世界そのもの、そして、その根源にある永遠なる存在としての神についての認識へと至るという知的探求の営みのうちに位置づけられることになると考えられる。

そして、つまりはそういった意味において、スピノザの『知性改善論』においては、人間の精神における知性の働きにおける最後の特性として、知性の第八の特性にあたる完全性の観念が提示されていると考えられるのである。

スポンサーリンク