前回までに書いてきたように、スピノザの『知性改善論』の最終章にあたる「知性の力とその諸特性について」と題された章では、哲学探究における主体となる人間の精神における知性の働きの主要な特性のあり方についての探求が行われたのち、

この未完の書物における哲学的考察の一つの集大成となる議論であると同時に、永遠なる真理へと通じていくさらなる哲学探究の道の方向性を示していく一連の言葉が語られていくことになる。

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真なる観念の欠如体としての虚偽の観念と虚構された観念

スピノザによって書かれた未完の書である『知性改善論』の記述は、以下のような一連の言葉によって終わる。

虚偽の観念および虚構された観念は、それらをして虚偽のあるいは虚構されたと呼ばしめる何らの積極的なものを含まず、ただ認識の欠陥からのみそうしたものとして考察されるのである。

だから虚偽の観念および虚構された観念は、虚偽であり虚構である限りにおいて、我々に思惟の本質について何ごとをも教え得ない。反対に、この本質は、今しがた検討した積極的諸特性から求められなければならない。

言い換えれば、それからこれらの本性が必然的に出てくるところの、すなわち、それが存在すればこれらも必然的に存在し、それが除去されればこれらすべてもまた除去されるところの共通のあるものがここに立てられねばならない。

――以下を欠く――

(スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳、岩波文庫、86ページ参照。)

この書物の全体においては、哲学的探求において見いだされていくことになる真なる観念がいかにして虚偽の観念や虚構された観念といったその他の種類の観念と区別されることになるのかという議論が一つの主題となっていて、そこでは、

「真理は自己自身によって自らを明らかにする」という言葉に象徴されるように、真なる観念は、知性による能動的な働きを通じて、真理としての自分自身の明証性によって自らの存在を明らかにするということが語られてきた。

そして、上記の引用箇所の最初の文においてスピノザは、そうした人間の知性において把握される真なる観念は、虚偽の観念や虚構された観念といったその他の種類の観念とは知性の働きによって明確に区別されるということを前提としたうえで、

虚偽の観念や虚構された観念は、そうした虚偽や虚構としての自らの性質において何ら積極的に意味のあるものを含まず、それはただの認識の欠陥という、真なる観念の欠如としてのみ成立する観念であるということが語られている。

つまり、そうした虚偽の観念虚構された観念といった真理に属さない観念は、それが単なる真なる観念の欠如体に過ぎないという意味において、

人間の精神における知性の働きに基づく哲学的探求の営みを妨害することもできなければ、そうした哲学的探求の営みにおいて真なる観念を見いだしていく知性の働きに対して積極的な影響をおよぼすこともできないと考えられるのである。

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人間の精神における知性の働きの本質

そして、上記の引用箇所における最初の文に続く部分では、そうした虚偽の観念や虚構された観念といった存在が、哲学的探求において把握されていくことになる真なる観念、そして、そうした真なる観念を把握する主体となる知性や思惟の働きの本質についていかなる積極的な影響をおよぼすこともできないということが確認されたうえで、

そうした哲学的探求において真なる観念を把握していく主体となる人間の精神における知性の働きの本質は、この章において検討されてきた積極的諸特性、すなわち、人間の精神における知性の働きの八つの特性のうちに求められるということが語られている。

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つまり、人間の精神は、自らの知性の働きに基づく哲学的探求において、単なる欠如体としての虚偽の観念や虚構された観念といった存在に惑わされることなく、

ただ自らの内なる知性の働きによって得られる真なる観念についての探求を進めていくことによって、必然的に、そうした自らの精神における知性や思惟の働きの本質についても把握していくことができると考えられるのである。

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神あるいは自然とも呼ばれる永遠なる真理の実在の証明

そしてさらに、上記の引用箇所における最後の文、すなわち、この未完の書物全体を締めくくる最後の文においてスピノザは、そうした人間の精神における知性の働きの本性がそこから必然的に出てくるところもの、

すなわち、それが存在することによってのみ人間の精神を含むすべての存在が成り立つことになる共通のあるものが必然的に立てられることになるということを語ることによって、この書物における記述を終えている。

ここでスピノザが語っている人間の精神を含むすべての存在の根源に存在する共通のあるものとは、すなわち、哲学的探求の営みにおいて最終的に求められていくことになる究極的な真なる観念、

すなわち、スピノザの哲学思想においては、神あるいは自然とも呼び表されていくことになる哲学探求における究極の目標となる永遠なる真理の存在そのもののことを意味することになる。

つまり、ここでスピノザは、人間の精神における知性や思惟の働きの本性は、そうした哲学探求における究極の目標となる永遠なる真理の存在そのものから必然的に導き出されていくことになると語っているのだが、

このことは逆に言えば、そうした共通のあるものとしての永遠なる真理が存在することによって必然的に存在することになる人間の精神における知性の存在によって、そうした神あるいは自然とも呼ばれる永遠なる真理そのものの実在はすでに明らかとなっているということを意味することになる。

なぜならば、そうした共通のあるものとしての永遠なる真理が存在しない場合、すなわちその実在が除去される場合には、そこから必然的に出てくるところの人間の精神における知性の存在も必然的に除去されてしまうことになるのだから。

つまり、哲学探求という知の営みが実際に成立していて、そうした人間の精神における知性の働きが現実に存在している以上、そうした知性の働きの根源にある神あるいは自然とも呼ばれる永遠なる真理そのものの実在はすでに明らかとなっていて、

人間の精神は、そして自らの内なる知性の働きについての内省的な探究を通じて、最終的には、そうした自らの精神の根源にしてすべての存在を包含する永遠なる真理の存在へと必然的に到達することになると考えられるのである。

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『知性改善論』から『エチカ』へのスピノザの哲学思想の展開

以上のように、こうしたスピノザの『知性改善論』と題される未完の書物における最後の記述においては、

哲学的探求の主体となる人間の精神における知性の働きのあり方の本質と、そうした知性の働きによって把握されることになる真なる観念についてさらなる吟味が行われたうえで、

そうした知性の働きや真なる観念についての明確な認識に基づいて、さらに先へと進んでいくことになる永遠なる真理へと通じる哲学探究の方向性のあり方が示されていくことになる。

そして、こうした『知性改善論』において記されている哲学探究における人間の精神における知性の正しい用い方についての一連の議論を土台とすることによって、スピノザの主著である『エチカ』おいては、

知性の働きに基づくすべての認識の根源にして、人間の精神を含むすべての存在を包含する共通するあるもの、すなわち、神あるいは自然と呼ばれる永遠なる真理についてのさらなる探究が行われていくことになるのである。

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