TANTANの独考

時事考察と哲学的思考を中心とする移ろいゆくものと永遠にとどまり続けるものについての筆者の主観的な観点からの見解も含めた独自の思考の記述

デカルトにおける自己原因としての神の概念とスピノザの『知性改善論』における自己原因としての自体的存在との関係

『省察』の「第三省察」の部門においてデカルトは、「自らに由因して存在する」あるいは「自らによって存在する力を持つ」存在として神を定義をすることによって自己原因としての神の概念を提示している。『知性改善論』における自己原因としての自体的存在すなわち神の本質へと至るための哲学的探求の手法をめぐる議論においてスピノザは、こうしたデカルト哲学における自己原因としての神の概念を新たに導入することによって、原因から結果へと進む演繹的な過程に基づいてすべての存在を理解する一つの統一的な哲学探究の手法の確立を試みている。

自体的存在と依存的存在という事物の存在の二つの様態の区分とスピノザが求める原因から結果へと進む演繹的な哲学探究の手段

スピノザの『知性改善論』の「方法の第二部」においては、それ自体として存在している自体的存在と、他の事物の結果として生じている依存的存在という事物の存在の二つの様態の区分がなされたうえで、原因から結果へと事物の存在を理解していく演繹的な手法に基づいて正しい秩序によって互いに連結されていくことになる真なる観念の体系の探求を通じて、最終的には、すべての存在の根源にある神あるいは自然の姿が自らの本質のみによって明らかにされていくことになるというスピノザが目指す哲学的探求における究極の目標とそこに至るための外郭となる手段のあり方が示されている。

スピノザにおける霊的自動機械としての人間の定義と必然性と自由意志の彼岸にあるスピノザ哲学における永遠なる真理

スピノザの『知性改善論』のなかには人間の精神のことを一種の霊的な自動機械として定義するという一見すると少し奇妙にも見える議論が登場する。スピノザの哲学全体を貫いている徹底した必然主義と決定論的な世界観においては、人間の精神もロボットのような精神を欠く自動機械も一切の有としての神の存在のうちにおいて普遍的な法則に基づいて生起する必然的な存在として位置づけられることになる。

精神や知性の存在を「非物質的な存在」や「不死なるもの」として語る言語表現における価値の転倒とスピノザにおける言葉と観念の区別

スピノザの『知性改善論』における表象力と知性そして言葉と観念の区別をめぐる哲学的な議論においては、精神や知性の存在を「非物質的な存在」や「不死なるもの」として語るのが言語表現における価値の転倒であることが示されたうえで、表象を表示する一種の記号としての「言葉」というものの存在がそれ自体としては必ずしも哲学的な探求の目標となっている「真なる観念」の獲得の助けとなるとは限らない多くの欠陥を抱えた混乱した概念であるということが明らかにされていく。

時代を超越して進む哲学的探求の営みと哲学と生物学における学問分野の領分を画定するスピノザの哲学的な議論

スピノザの『知性改善論』においては、脳や身体の働きに基づく受動的な感覚作用としての表象力と、人間の精神における知性の働きを明確に区別していくことを通じて、学問の探求における哲学と生物学の領分を画定したうえで、時代を超越して進む哲学的探求の営みのあり方までもが提示されていくことになる。

心脳同一説を否定する根拠となるスピノザの『知性改善論』における記憶と知性の働きとの本質的な区別をめぐる哲学的な議論

スピノザの『知性改善論』における記憶と知性の区別めぐる議論においてスピノザは、物質の領域に属する存在である脳が司る記憶や忘却といった働きと、精神の領域に属する知性や意識の存在を存在論的に明確に区別することによって、現代の脳科学や科学哲学などの分野における心脳同一説の否定へとつながる一つの哲学的な理論を提示している。

ストーリー記憶とスピノザ哲学における知性の働きに基づく記憶法:『知性改善論』における記憶の定義と知性の働きとの関係性

スピノザの『知性改善論』における記憶と知性との関係性をめぐる一連の議論においては、現代の脳科学や認知科学の分野におけるエピソード記憶やストーリー記憶と呼ばれるような記憶のメカニズムやある種の記憶術へと通じる考え方が提示されている。

デカルトの『省察』とスピノザの『知性改善論』における「欺く神」の議論と『エチカ』へと通じる幾何学的な思考の道筋

デカルトの『省察』における「欺く神」の議論においては、無限と永遠、自己原因、完全性といった三つの概念をめぐる哲学的な議論を通じて欺瞞者としての邪悪な性質を持つ欺く神の存在が否定される。それに対して、スピノザの『知性改善論』における幾何学的な定理との類比関係に基づく欺く神の否定の論証においては、『エチカ』へと通じるスピノザの独特の幾何学的な思考の道筋を見いだしていくことができる。

「疑わしい観念」と「虚偽の観念」と「虚構された観念」と「真なる観念」という四つの観念の形式の『知性改善論』における定義

「疑わしい観念」と「虚偽の観念」と「虚構された観念」と「真なる観念」という四つの観念の形式は、スピノザの『知性改善論』において具体的に以下のような形で区別と定義がなされている。人間の知性においては様々な観念についての分析と吟味が進められていったうえで、最終的にすべての観念は、「虚偽の観念」と「真なる観念」というただ二種類のみの観念の形式へと必然的に行き着くことになる。

スピノザにおける自然の定義とは何か?『知性改善論』における「一切の有」「唯一の無限」としての自然の根源

スピノザは『知性改善論』における記述のなかで「自然の根源」とは「唯一の無限」にして「一切の有」であると語っている。こうした『知性改善論』における自然の定義のあり方に見られるように、スピノザは物質と精神を含むすべての存在の根源にしてそれらのすべてを包含する唯一にして無限なる存在である神ともいうべき存在のことを「自然」という概念によって表現していると考えられる。

虚偽の観念の定義をめぐるスピノザの哲学的な議論から示唆されるアニミズム思想や唯物論的な還元主義に対するスピノザの否定的な見解

『知性改善論』の「虚偽の観念について」と題された章においてスピノザは「森や偶像や獣の中の神霊」「単にそれを合成しただけで知性の生じる物体」「神が欺かれる」といった観念を虚偽の観念の代表例として挙げている。こうした虚偽の観念の定義をめぐる哲学的な議論からはアニミズム思想や心脳同一説などの唯物論的な還元主義に対するスピノザの否定的な立場が示唆されることになる。

単純な観念と合成された観念の区別に基づくスピノザの『知性改善論』における真なる観念の最終的な定義

スピノザの『知性改善論』における真なる観念と虚構された観念との区別をめぐる議論においては、最終的に、真なる観念とは、それ以上はいかなる部分へも分解していくことができない最も単純で明瞭かつ判明な観念、または、そうした最も単純な真なる観念が正しい秩序に基づいて合成された観念のことを意味するのに対して、虚構された観念とは、最も単純な観念へと還元することができない多数の要素から合成された混乱した部分的な認識によって成り立っている観念としてそれぞれ定義されることになる。

スピノザにおける誤謬と妄想の定義:知性が部分的に夢を見ている状態としての誤謬と意識全体が夢と混同された妄想の状態

スピノザの『知性改善論』における虚構と真実、夢と現実の区別をめぐる議論からは、さらに発展して誤謬や妄想といった概念についての定義も導かれていく。スピノザの認識論に基づくと、誤謬とは全体としての意識は目覚めた状態にありながら個別の認識においては知性が眠っていて正しい秩序を見いだせないでいる部分的に夢を見ている状態として定義されるのに対して、人間の精神や知性そのものの混乱や荒廃の状態がさらに進展していくと、人間は目覚めながらにして常に夢を見ているような混乱した状態、すなわち、妄想を抱き続けている状態へと陥ってしまうということが語られている。

夢と現実を区別する哲学的な根拠についてのスピノザの認識論に基づく解釈

スピノザの認識論哲学における夢と現実の区別の議論に基づくと、人間の精神や知性は、自らの哲学的探求を通じて学んできた真なる観念に基づく正しい秩序、すなわち、合法則性や論理的整合性といった永遠なる真理へと通じる普遍的な秩序の存在を哲学的な根拠とすることによって、夢と現実とを明確に区別していくことができると結論づけることができる。

虚構された観念と真なる観念の区別とスピノザの認識論における必然・可能・不可能という三つの様態の関係

スピノザの認識論においては、虚構された観念と真なる観念と区別していくために、人間の知性によって認識されるあらゆる観念が必然・可能・不可能という三つの様態へと区分されていったうえで、虚構された観念の存在の土台となっている可能的な観念についての吟味と省察を行っていくことによって、人間の知性は不可能性が排除された必然的な観念としての真なる観念を認識することができるということが示されている。

スピノザ哲学における懐疑論批判と精神を欠く自動機械:スピノザの認識論哲学に基づく人間とAIを区別する唯一の哲学的な条件

スピノザはいかなる意味においても真理の認識を否定する懐疑論者たちに対する批判のなかで、最終的に、彼らは「自己自身さえ意識しない」「精神をまったく欠く自動機械」であると主張している。こうしたスピノザの認識論哲学における懐疑論者たちへの批判の言葉からは、人間とAIすなわち人工知能とを区別する一つの哲学的な条件を読み解いていくことができる。

「真理は自己自身によって自らを明らかにする」というラテン語の格言に込められたスピノザの真意とは?

スピノザは「真理は自己自身によって自らを明らかにする」(Veritas se ipsam patefacit)というラテン語の格言によって、真理の認識における明証性と推論による論証の問題の本質を解き明かしている。ブッダやキリストのような神の認識にも近い卓越した知性の力によって獲得される永遠なる真理についての直観的な認識と、哲学を志す人々が果てしない哲学的探求の道のりの末にたどり着く真理の認識は、究極的には一致することになるというのが上記のラテン語の格言に象徴されるスピノザの真理論の根底にある思想であると考えられる。

アリストテレスの第三の人間論に対するスピノザの『知性改善論』に基づく反駁

アリストテレスの第三の人間論においては、個物としての「一人一人の人間」と共に「人間」のイデアを人間として規定するためには両者を包含する「第三の人間」のイデアが必要となり、「第三の人間」のイデアを人間として規定するためにはさらに「第四の人間」のイデアが必要となるというようにイデアの無限遡及の問題が生じる。『知性改善論』におけるスピノザの真理論ではこうした第三の人間論と呼ばれるアリストテレスなどによるイデア論批判への反駁へとつながる哲学的議論の道筋を見いだしていくことができる。

スピノザにおける真理の認識とペテロの観念の観念

スピノザの『知性改善論』では「ペテロの観念の観念」そして「鉄を鍛えるハンマー」という二つの比喩を通じて、人間の知性が真理の認識、すなわち、真なる観念を得るためにたどっていくことになる哲学的探求の具体的な道のあり方が語られている。人間は自らの知性の内に見いだしていくことができる最も確実で明証的な真理の認識に基づいて、そこからさらにより高次の真理の認識を獲得していくという哲学的探求の道を歩み続けていくことによって、最終的かつ必然的に、永遠なる真理へと至ることができると考えられる。

スピノザの認識論哲学における四つの認識様式の区分と演繹的推論と帰納的推論との関係

スピノザの認識論哲学においては、人間の知覚や認識のあり方は四つの認識様式あるいは知覚様式へと区分されていくことになり、そこでは現代の論理学や認識論における演繹的推論や帰納的推論と呼ばれる推論のあり方へも通じていく思考を見いだしていくことができる。真理の本質そのものは、知的に直観することができるという確信こそがこうしたスピノザの認識論哲学の根本にある思想であると捉えることができる。